ミトベゴロウ(57歳・製本所の職人33年)
うちの工場は新しい本を作る場所だが、ときどき、もう壊れた本が持ち込まれる。背の割れた辞書、ページの外れた絵本、糸の切れた聖書。受付の机にそれが置かれるたび、私はまず本そのものより、その本を抱えてきた人の手のほうを見てしまう。本への愛情が詰まった手だと、いつも思う。
持ち込まれる本は、たいてい読み込まれている。新しい本の壊れ方は事故だが、古い本の壊れ方は記録だ。どこがどう壊れているかを見れば、その本がどう使われてきたかが分かる。背の割れた辞書を開くと、たいてい同じあたりが割れている。よく引かれた語のページだ。人の手は、いちばん必要とした場所から、本を壊していく。
絵本は角から丸くなる。子どもは本を読むだけでなく、噛み、投げ、抱いて眠る。だから絵本の壊れ方は、辞書とはまるで違う。表紙の角が削れて丸まり、見返しが破れ、好きなページだけが外れて手垢で灰色になっている。先日持ち込まれた絵本は、見返しがすっかり剥がれていた。直し方を相談しながら、私はその丸い角を、できれば残したいと思ったのかもしれない。
修理には方針がいる。元の姿にできるだけ近づけて戻すか、それとも、これからも使える形に作り替えるか。見た目を取るか、実用を取るか。持ち主に必ず訊く。古い装丁のまま飾っておきたい人もいれば、毎日また引きたいから丈夫にしてくれという人もいる。背の割れた辞書を、糸かがりで綴じ直して見返しを貼り替えれば、見た目は変わるが、また何十年も引ける。元のままがいいか、これから使える形がいいか——それは私が決めることではない。
その絵本を持ってきたのは、年配の女性だった。自分が子どもの頃に読み、いまは孫に読んでいるのだという。同じ本を二世代で直しに来る家がある。前にも一度、別の店で直したらしく、見返しに古い継ぎ紙の跡があった。私はその上から、もう一度継いだ。子どもの代の手と、孫の代の手と、二度直した誰かの手と、私の手が、一冊の見返しの裏で重なっていた。本というのは、こうして人の手をつないでいくものなのだろう。
図書館からは、まとめて修理が来る。段ボールに何十冊と詰められ、付箋に「背割れ」「ページ外れ」「ノド割れ」と症状が書いてある。一冊ずつ開いて、外れたページを継ぎ、切れた糸をかがり直し、剥がれた見返しを貼る。書き込みだらけの参考書も混じっている。傍線、付箋の糊あと、余白の小さな字。消すべきか迷うが、図書館の本だから、書き込みは消す。けれど、その本がいちばん読まれた証だけは、私の手の中に残る気がした。
直せない本もある。紙の酸化が進みすぎた古書だ。茶色く焼け、触れると角がぱりぱりと欠ける。こういう紙は、綴じ直そうと糸を通せば、その針穴から裂ける。糊を引けば、湿りでさらに崩れる。直すという行為そのものが、その本を壊してしまう。「これは直さないほうがいい」と言うのも、修理屋の仕事のうちなのかもしれない。手を入れないことが、いちばんの修理になる本がある。
修理を終えた本を、最初に一度だけ開く。新しく綴じ直した本なのに、開きには馴染んだ癖が残っている。長年いつも開かれてきたページで、背が素直に寝る。新品の本にはない開きだ。私はその馴染みを、できるだけ壊さないように直す。割れた背を固め直しても、その人の手が通ってきた道だけは、消さずに残しておきたい。
新しい本を作るとき、私は見たことのない読み手の手を想像する。修理の本では、その手がもう本に刻まれている。壊れ方は、使われ方の記録なのだ。背の割れも、丸い角も、切れた糸も、その本が誰かに愛された分だけ残った傷なのだ。私はその傷を読みながら、今日も誰かの手の続きを、糸で継いでいる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。