核は強い。「何の字が消えてますか」と電話で聞き返す手順、看板の内側に積もった羽虫の灰色の層、夕暮れに一文字ずつ灯る点灯テスト、親方の夜回り。この四点でこの書き手は十分立つ。問題は、その四点を信用せず、「別の名前になる」という思いつきの上手さに寄りかかり、最終段で主題を三度も直叙して自分で回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、字間を読んできた職人を語り手にしながら、肝心の観察が「灰色の層」止まりで、職人にしか見えないはずの一段深い細部に踏み込めていないこと。職業エッセイは、職業の手つきで一段下を見せた瞬間に本物になる。
「毎日見ているものほど、人は見ていない。それが看板というものなのだ。」/「毎日見ているものほど見ていない、それが看板なのだ。」
同じ主題文を、三段目と最終段で、ほぼ同じ言い回しで二度押している。一度でも解説的なのに、二度は説教だ。しかもこの主題は、すでに「あ、ほんとだ、『ラ』が消えてる」という店主の驚いた声が完璧に運んでいる。声が運んだものを、わざわざ作者が抽象語に翻訳し直すたび、あの一言の値打ちが下がる。主題文は全部消してよい。
「文字は、一度消えて初めて、読まれる。だから私は、今日も誰かの消えた一文字を、点け直しに行く。」
「だから私は、今日も〜しに行く」は、この書き手の三作すべての末尾に貼れてしまう判子だ。一作目は「下ろしに行く」、ここは「点け直しに行く」。同じ型を繰り返した時点で、それは余韻ではなく癖の自己模倣になる。「一度消えて初めて読まれる」も箴言の体をした汎用句で、看板でなくても成立する。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めている。
「空が藍色になる、あのわずかな時間帯に、スイッチを入れる。」
「藍色の空」「わずかな時間帯」は、夕景を安く美しくする既製部品だ。点灯テストを夕暮れにやる理由は、直前で「明るすぎても暗すぎても点いているか分からない」と実務で説明できている。それで十分なのに、そこへ叙情の上塗りをすると、せっかくの実務の手つきが嘘くさくなる。本当に毎夕この時間に作業している人間が見るのは、藍色ではなく、店主が灯を点ける前の薄暗い店内か、隣の自販機の光か、点いた瞬間に集まり出す最初の虫のはずだ。
「切れない看板は、誰にも見上げられないのではないか、と。」
原因を追い、テスターを当て、どこで電気が止まったかを断定して直すのがこの人物の生業だ。その語り手が結びを「〜のではないか」で逃げると、断定を避ける作者の保険に見える。しかもここは、いちばん言いたいことを疑問形に薄めている箇所だ。言い切れないなら書かない、言い切れるなら言い切る。職人の文体はそちらのはずだ。
「光に集まった羽虫が、何年分も積もって、底に灰色の層を作っている。」
「灰色の層」は惜しいところまで来ているが、まだ素人にも書ける比喩で止まっている。二十五年看板の中を開けてきた人間なら、もう一段具体が出るはずだ——どの字の中がいちばん虫が溜まるか(光量の多い太い字か、熱を持つ安定器の近くか)、LEDに替えてから虫の量がどう変わったか、蓋を開けた瞬間の匂い。職人の権威は、誰も開けない場所を開けてきたことにある。その特権を「灰色の層」一語で手放している。
「今はもう、そんな商売は合わない。夜回りの時間は、伝票の上のどこにも書けない。」
素材は一級品だ。頼まれてもいない夜回り、翌朝の「『の』が消えてましたよ」、親方の「付けたら面倒見るもんだ」。だが締めの二文は、その良い素材を「いい時代は終わった」という既製の感傷に流し込んでいる。「伝票に書けない」は、二作目の「三十八キロ」=「金属くず」の伝票モチーフの焼き直しでもある。同じ手は二度効かない。ここは感傷を足さず、夜回りで実際に何が見えたか(消えた字の具体、流した道順、軽トラの速度)だけを置けば、時代の話は読者が勝手にする。
「看板というのは、不思議なものだ。」/「内側のことは、誰も知らない。」
前者は職人でなくても言える間投詞で、読者の関心を引く前に作者が「不思議でしょう」と先回りしている。後者も、看板を「中身を知らないもの」一般に薄めてしまう締め句で、直前にせっかく書いた虫と埃の具体を、抽象で蓋をしてしまう。どちらも、具体のあとに置く「まとめの一言」で、なくても文は立つ。むしろ無いほうが立つ。
残すべきは四つ。「何の字が消えてますか」と聞き返し、店主が外へ出て「『ラ』が消えてる」と驚く電話。看板の中の虫——ただし「灰色の層」ではなく、どの字に溜まるかまで。夕暮れの点灯テストで、一文字ずつ灯って名前が戻る瞬間——ただし藍色の叙情抜きで。そして親方の夜回り——感傷の締めなしで、見えた具体だけ。削るべきは、三度の主題直叙、「今日も〜しに行く」の判子、藍色の夕暮れ、留保語尾、二作目の焼き直しになった伝票モチーフ。改稿では、点滅=消える前の予告という発見を中心に据え、店主が気づかないことを「見ていない」と説明せず、店主の驚いた声だけで見せること。意味は声と動作が運ぶ。主題文が運ぶのではない。