電飾の、玉切れ
一文字が消えると、店は別の名前になる

モギソウスケ(47歳・看板職人25年)

看板の電飾は、文字を一つずつ光らせている。だから一つだけ消えると、店は別の名前になる。「サウナ」の「ウ」が落ちれば「サ ナ」になり、夜の町でだけ、その店は名前を半分なくす。私はそういう穴を、つい先に見つけてしまう。昼間は元気だった文字が、夜だけ口をつぐむ。看板というのは、不思議なものだ。

修理の依頼は、たいてい曖昧な電話で来る。「うちの看板、何か変なんです」。何かとは何かと聞いても、店主は言葉にできない。だから私は決まってこう返す。「何の字が消えてますか」。そこで初めて、相手は自分の看板を見上げる。電話口の向こうで、店の外に出ていく足音がする。しばらくあって、「あ、ほんとだ、『ラ』が消えてる」と、驚いた声が返ってくる。毎日見ているはずなのに、消えた瞬間には誰も気づかない。

店主は毎日その看板の下を通る。鍵を開け、暖簾を出し、夜には灯を落として帰る。それでも、自分の店の名前が一文字欠けたことには気づかない。あんまり見慣れているから、看板の文字を、もう読んでいないのだ。脳が、消えた字を勝手に補って読んでしまう。私のような外の人間が、通りすがりに「ああ、あそこ切れてるな」と気づく。毎日見ているものほど、人は見ていない。それが看板というものなのだ。

電飾が切れる前には、たいてい予兆がある。点滅だ。安定器が弱ってくると、文字が一定の明るさを保てなくなり、チカ、チカ、と不規則に瞬き始める。あれは、消える前の看板の、最後の言葉のようなものだ。点滅し始めた看板は、どこか不穏で、見ているとこちらが落ち着かない。「もうすぐ切れますよ」と、文字のほうが先に知らせている。店主はそれにも気づかない。気づくのは、完全に消えてからだ。

原因を探るのが、まず仕事になる。昔ながらの蛍光管なら、玉切れか、安定器の劣化か、配線の接触か。今はLEDモジュールが主流で、一文字の中に小さな粒が何個も連なって入っている。そのうちの一連が死ぬと、文字が半分だけ暗くなる。私はバケットの上で、テスターを当て、どこで電気が止まっているかを追う。死んだモジュールを外し、新しいものに替える。半田の匂いがする。直すと、文字はまた、何事もなかったように光る。

看板の中を開けると、虫と埃の世界が広がっている。光に集まった羽虫が、何年分も積もって、底に灰色の層を作っている。ケースの隅には蜘蛛の巣が張り、小さな卵の殻が落ちている。文字の内側は、外から見るあの明るさとはまるで別の、暗くて雑然とした場所だ。私は刷毛で虫の死骸を払い、配線を確認し、また蓋を閉める。閉めれば、外側はまたきれいな名前に戻る。内側のことは、誰も知らない。

点灯テストは、夕暮れにやる。明るすぎても暗すぎても、本当に点いているかが分からないからだ。空が藍色になる、あのわずかな時間帯に、スイッチを入れる。一文字ずつ、順に灯っていく。全部の字が揃って光った瞬間、店の名前がそこに戻ってくる。私はバケットの上から、それを下りずに、少しのあいだ見ている。直った文字より、たった今まで欠けていた一文字のほうを、長く見てしまう。

親方の代には、点灯確認の夜回りをサービスでやっていた。担当した町内を、夜、軽トラでゆっくり流して、切れている看板がないかを見て回る。切れていれば、翌朝に「おたくの看板、『の』が消えてましたよ」と声をかける。頼まれてもいないのに。親方は「看板ってのは、こっちが付けたら、こっちが面倒見るもんだ」と言っていた。今はもう、そんな商売は合わない。夜回りの時間は、伝票の上のどこにも書けない。

蛍光管からLEDへの交換工事が、この数年で一気に来た。電気代が安く、寿命が長い。古い管を外し、モジュールを組み、配線をやり替える。確かに、もう滅多に切れなくなった。点滅して不穏に瞬く看板も、減った。いいことだ。だが私は、たまに思う。切れない看板は、誰にも見上げられないのではないか、と。毎日見ているものほど見ていない、それが看板なのだ。文字は、一度消えて初めて、読まれる。だから私は、今日も誰かの消えた一文字を、点け直しに行く。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。