核は強い。「そこ、一ミリ詰めろ」、詰めても本人にすら違いが分からないという正直さ、そして「読みやすい看板ってのはな、誰も看板だと思わねえんだ」という親方の逆説。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、夕暮れの商店街という安い書き割りで雰囲気を作り、留保語尾で逃げ、最終段で逆説を自分の口で何度も解説して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、ミリ単位を見る人間を語り手にしながら、肝心の場面の数字や手つきがふわっとしていること。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「あの春の一ミリが、私をいまの私にしてくれた。読まれない文字を作る職人に。今日も私は、誰にも気づかれない看板を、町のどこかに貼りに行く。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、モギソウスケである必然がない。「今日も私は……貼りに行く」という現在進行形の余韻も、定型の締め方です。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めてしまっている。
「夕暮れの商店街に看板の灯りがぽつぽつと点り、人々はその下を通り過ぎていく。」
夕暮れ、商店街、灯り。三点セットで「情緒ある町」を安く調達しています。この書き手が本当に脚立に登ってきた職人なら、出てくるのは夕暮れではなく、シートのメーカー名か、退色しやすい赤の話か、糊が乾く前の手の冷たさのはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。しかもこの灯りの場面は、後段の「誰も看板だと思わない」という主題と内容が重複しており、装置として二度同じことを言っている。
「たぶん古い手書きの版下を元にした書体だった。」「なんだか切ない仕事を選んでしまったな、と若い私は思ったのかもしれない。」
一ミリを見る人間は、断定で生きている職業です。詰めるか詰めないか、寝かせるか立てるかを、迷いなく決める手の人間。その人物の回想が「たぶん」「かもしれない」で薄まるのは、迷う若手の心理ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに自分が何を思ったかを「思ったのかもしれない」と他人事にするのは致命的で、回想する本人にしか分からないことまで逃げている。
「そのとき貼っていたのは、近所のクリーニング屋の店名だった。」
「クリーニング屋の店名」は設定であって観察ではない。実際にその文字を貼った人間なら、店名そのもの(何という三文字目と四文字目だったのか)と、その字形が出てくるはずです。「詰めろ」と言われた字間が、たとえば「ン」と「グ」のあいだだった、と書けば、なぜ一ミリが要るのかまで読者に伝わる。カタカナの「ン」は右上が空くから、隣を詰めないと間延びして見える――そういう字の理屈こそ、この職人にしか書けないディテールです。具体の文字が一つも出てこないので、一ミリの話が観念のままで終わっている。
「私は言われた通り、四文字目を剥がして、一ミリ詰めて貼り直した。」
カッティングシートは一度貼って糊が利けば、四文字目だけきれいに剥がして一ミリずらす、という芸当はそう簡単ではありません。水貼りなら位置決めの猶予があり、空貼りなら一発勝負。第一稿はそのどちらで貼っていたのかを書いていないので、剥がして貼り直す描写が宙に浮いている。後段でせっかく「水貼り」「空貼り」「スキージの角度」を語れるのに、いちばん効くクライマックスの一ミリでその知識を使っていない。道具を知っている人間の手つきが、肝心の場面で消えています。
「良い看板は風景になる。誰にも意識されない。意識された看板は、どこかが下手なのだ、と。」「私たちが命を削って詰めた一ミリは、成功すれば、この世に存在しなかったことになる。」
親方の「誰も看板だと思わねえんだ」がすでに全部言っています。その直後に同じことを地の文で言い直し、さらに次の段でもう一度抽象語で言い直す。逆説を直叙で繰り返すたびに、親方の一言の値打ちが下がっていく。エッセイの主題を主題文として三回書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。読者は逆説を「発見」したいのに、作者が先に三回解説してしまっている。
「これは妙な仕事だと思った。」
この一文は、墓石彫りの職人にも、花火師にも、そのまま置ける。何がどう妙だと思ったのか、その瞬間に手元で何が起きていたのか(カスを取りかけた手が止まったのか、店主が窓越しに見ていたのか)を書かなければ、人物の思考は存在しないのと同じです。汎用の感想は、誰の声でもない声になる。
残すべきは三つ。「そこ、一ミリ詰めろ」、詰めても本人に違いが分からないという正直さ、親方の「誰も看板だと思わねえんだ」。削るべきは、夕暮れの商店街の灯り、留保語尾、最終段の逆説の三度づけ。改稿では、詰めた字間を実在のカタカナ二字で名指しして一ミリの理屈を字形で語り、その一ミリを水貼りか空貼りかの具体の手つきの中に置いてください。そして逆説は親方に一度だけ言わせ、地の文では二度と言い直さない。意味は字形と手が運ぶ。説明が運ぶのではない。