タカハシセイイチ(家計アドバイザー・CFP・1級FP技能士)
朝、駅の売店で新聞を開いて、見出しに目が止まる。「あなたの年金、本当に足りますか」。地下鉄の中吊りには別の雑誌の見出しが揺れている。「老後2000万円問題、ついに3000万円時代へ」。スマートフォンを開けば、ネット記事の通知が来ている。「ねんきん定期便、見ない人ほど損をする」。同じ朝に、同じ人物に対して、三つの違う媒体が、ほぼ同じ構文で「あなたは大丈夫か」と問いかけている。
本シリーズで扱うのは、マネー記事に頻出する「煽り見出し」の構文だ。最初に、年金関連でよく見るタイプを、架空の合成例として並べておきたい。実在媒体の特定の見出しではなく、構文の骨格だけを再現したものだ。
この五つを並べると、共通の部品が見えてくる。第二人称の呼びかけ(あなた)、危機の暗示(足りますか/破綻/生き抜く)、行動への急かし(今すぐ/7つのこと/見ない人)、そして数字の片鱗(2000万円・3000万円・50代)。不安を喚起する四点セットと呼んでいいだろう。
「老後2000万円問題」という言い方の出どころは、2019年の金融庁ワーキング・グループ報告書だ。私は当時、まだ大手証券会社にいた。社内で報告書のドラフトが回覧された日のことは、覚えている。
原文の趣旨は、シンプルだった。高齢夫婦無職世帯の月の収支を家計調査から拾うと、平均で五万五千円ほど、支出が収入を上回っている。これが三十年続けば、二千万円ぶんを取り崩すことになる。だから、現役のうちから資産形成を考えておきましょう、という内容だった。条件付きの平均値の話で、「全員に二千万円足りない」という話ではなかった。
ところが、報告書が公表された数日のうちに、「老後二千万円不足問題」という見出しが、テレビ、新聞、ネット、雑誌の全方位に広がった。条件付きの平均が、「あなた」固有の不足額として翻訳された。営業現場では、月曜の朝礼の話題が一気に変わった。投資信託の販売員が、報告書のコピーを脇に置いて、来店した客に「老後の不足額」を提示するようになった。私自身も、何度かその脇役を演じた。
条件付きの平均値が、「あなた」固有の不足額として翻訳された瞬間、見出しは煽りに変わった。
独立してFPになって以降、年金不安を抱えて相談に来る方には、まず数字を出してもらうようにしている。直近の「ねんきん定期便」の見込み額、現在の生活費、退職金見込み、住宅ローン残高、預金、配偶者の年金見込み、子どもの教育費の残り。八つほど数字を並べると、その人の老後不足額は、たいてい二千万円という丸い数字とは違う形に着地する。三千五百万円の人もいれば、八百万円の人もいるし、一円も足りなくならない人もいる。
たとえば、ある相談者の方(五十代後半・会社員・配偶者あり・住宅ローン完済・子ども独立)の場合、ねんきん定期便の月額見込みが夫婦合算で月二十三万円、生活費は月二十二万円、月一万円の余剰だった。三十年で見ても、不足はゼロだった。退職金が約千五百万円あり、これは老後の予備費として残せる。「二千万円問題」のテンプレートを、そのまま当てはめると、この方の家計はずっと不安に晒されることになるが、実際には、当面の心配は要らないはずだった。
逆に、別の相談者の方(四十代後半・自営業・国民年金のみ・配偶者あり・子ども二人・私学の高校)の場合、ねんきん定期便の見込みは夫婦合算で月十一万円、生活費は月二十六万円、月十五万円の不足だった。三十年で五千四百万円。「二千万円問題」の数字は、この方には全く足りていない。煽り見出しを真に受けて二千万円だけ準備しても、十年で底をつく計算になる。
「あなたの年金、本当に足りますか」という問いの、本当の答えは、「あなた」によって違う。違うのに、同じ二千万円という数字が、全員に向かって投げかけられている。これが、煽り見出しの第一の問題だ。
もう一段、構文を解剖したい。煽り見出しの第二人称「あなた」は、文法的には呼びかけに見えるが、機能としては別のものだ。読者は「あなた」と言われた瞬間に、自分の家計を、見出しの問いの空白に当てはめようとする。当てはめると、自分の数字が分からない人ほど、不安が増幅する。主語を「あなた」にすることで、不安の重さを読者に肩代わりさせているのだ。
これは、私が証券会社にいた頃、社内で「自分ごと化」と呼ばれていたテクニックの一種だ。商品説明会で、「皆さんの中にも、こういうご経験があるのではないでしょうか」と切り出す。営業の世界では基本動作だ。記事の見出しでは、その「皆さんの中にも」が「あなた」一語に圧縮されている。圧縮率が高い分、効きも強い。
対抗手段は、ひとつだけある。自分の数字を持つことだ。ねんきん定期便を開く。生活費を月単位で把握する。住宅ローンと教育費の残額を書き出す。これだけで、「あなた」と問われたときに、空白に放り込まれずに済む。煽り側が空白を狙ってくるからこそ、空白を埋めるのは自分の作業になる。
三つ目の部品は、行動を急かす副詞句だ。「今すぐ」「50代が今すぐやるべき」「見ない人ほど損をする」「ついに◯◯時代へ」。これらは、読者に「明日では遅い」と感じさせる効果を持つ。
ところが、年金や老後資産の話は、本来、「今すぐ」やるべきことが、それほど多くない領域だ。ねんきん定期便を確認する、家計簿をつける、iDeCoとNISAの非課税枠を埋めるかどうかを検討する、保険を見直す——いずれも、一週間や一か月の遅れで人生が傾くような性質の作業ではない。「今すぐ」と急かす必要が、本来はない。
では、なぜ煽りは「今すぐ」を入れるのか。記事媒体の側にとっては、クリックや雑誌購読を「今」促す動機がある。広告主の側にとっては、商品を「今」売りたい動機がある。記事を読んだ瞬間に動かないと、読者は記事のことを忘れる。「今すぐ」は、読者のための言葉ではなく、媒体と広告主のための言葉だ。
これも対抗手段はシンプルで、「今すぐ」と書かれていたら一拍置く、ぐらいの作法でいい。一拍置いて、その記事を一週間後に読み返す。一週間後に同じ熱量で気になっていれば、本当に検討すべきことだ。たいていは、一週間後には熱が冷めていて、「ああ、煽られていたんだな」と気づく。
四つ目、数字の片鱗。「7つのこと」「5つのコツ」「3大失敗」のキリ番化は、記事として読みやすい体裁を作るためのもので、これ自体は煽りとは限らない。問題は、その7つの中身が、本人の状況に合わせて選ばれていないことだ。汎用化された7つの行動指針は、本人の家計の真ん中に立っているとは限らない。
家計アドバイザーとして相談を受けるとき、私はその方のために、毎回違う数の選択肢を出す。三つで足りる場合もあるし、二つに絞ることもある。七つ並べる必要があった相談は、十年で一回もない。七つの行動指針は、媒体のコンテンツ設計のためのキリ番であって、家計の現実から立ち上がった数ではない。
こう書いてくると、煽り見出し全体への批判のように見えるかもしれないが、私はマネー記事の存在自体は否定しない。家計や年金の話を考えるきっかけとして、見出しの煽りに動かされて行動を始めるのは、何もしないよりは、たぶんいい。問題は、煽りに動かされて、煽り側が用意した解決策(特定の保険、特定の投資信託、特定のセミナー)にそのまま流れ込むことのほうだ。
私の仕事のスタイルは、「決めるのは先生(相談者本人)」だ。FPの私が「あなたはこれを買うべき」と言うのは、押し売りに近づく。代わりに、私は選択肢を三つほど並べる。例えば年金不足が見込まれる方には、(1) 支出を月二万円減らす、(2) 七十歳まで繰り下げて月の年金を増やす、(3) iDeCoとNISAで残り十年で資産を作る、というように、それぞれのメリット・デメリット・必要な行動量を提示する。決めるのは本人だ。本人の数字と本人の人生に、私のおすすめが上から覆いかぶさることは、できるだけ避けている。
煽り見出しは、選択肢を並べない。「やるべき7つのこと」と提示するけれど、それを「やらない」という選択肢は提示されない。やらない選択肢を並べないのは、押し売りに近い構造だ。
具体的な行動として、ひとつだけ提案したい。ねんきん定期便を、誕生月に届く封筒のまま放置している方は、たぶん、家計の三人に二人くらいいる。「定期便、見ない人ほど損をする」という煽り見出しは、その意味では、半分は正しい。封筒を開けるだけで、自分の年金見込み額が分かる。分かれば、煽り見出しの「あなた」の空白が、自分の数字で埋められる。
開けるのに必要なのは、五分だ。五分のために、月一万円の保険商品を二十年契約させる方向に持ち込まれるのは、釣り合っていない。煽り見出しの先にある営業の動線を、五分で断ち切れる。
本シリーズの第一回として、私が読者にお願いしたいのは、それだけだ。煽り見出しに動揺したら、定期便を開ける。開けて、数字を見て、それでも不安が残るなら、独立系のFPか、消費生活センターに相談する。私のような独立系FPは、商品販売手数料を取らないので、押し売りの動機を持たない。手数料を取るFPに相談する場合は、相談料が事前に明示されているか、提案商品で利益が出る人が誰なのかを、最初に確認するといい。
煽り見出しの「あなた」の空白は、自分の数字で埋まる。埋め方は、五分の作業から始まる。次回(#2)では、その「自分の数字」を投資にどう使うかを、別の煽り見出しの構文を解剖しながら考えていきたい。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。