タカハシセイイチ(家計アドバイザー・CFP・1級FP技能士)
相続関連の煽り見出しは、ほかの領域と少し違う性質を持っている。金額の話と、家族の話が、同じテーブルに並ぶ。「揉めない相続」「親が元気なうちにしか聞けない」「節税のつもりが裏目に」。これらの見出しの構造には、独立系FPとして書ける部分と、書けない部分がある。今回はその区分のほうに、重心を置きたい。
「揉めない相続」と銘打つ見出しは、暗黙に「揉めること」を、解決すべき問題として位置づけている。だが、揉めることが「悪いこと」なのか、「対処すべきこと」なのか、「専門家に依頼して回避すべきこと」なのかは、家族によって違うようだ。
家計アドバイザーとして相続の相談を受けてきた経験から書くと、相続のなかで起きる議論や対立は、亡くなった方が生きていた時間のなかで蓄積されてきた、家族のあいだの感情の働きの一部である場合が多い。相続の場で初めて生じるのではなく、相続の場で表面化するに過ぎない。介護を一人で担ってきた長男の妻、家を継がなかった次男、結婚前に経済的支援を受けた長女——それぞれの記憶と感情が、金額の分配の議論のなかで、それぞれ違う重みを持って現れる。
これらを「揉めない」と銘打って、未然に処理することが、家族にとって本当に良いことかどうかは、私には判断できない。家族カウンセラーや、家族療法の専門家が書くべき領域だ。煽り見出しは、この判断を、外側からの「鉄則」で済ませる方向に、読者を誘導する。
独立系FPとして、相続の相談を受けるとき、私が書ける部分と書けない部分を、はっきり分けるようにしている。書ける部分は、金額に関わる作業:相続税の概算、生前贈与の活用法、不動産の評価方法、生命保険を活用した納税資金の準備、遺言書の作成支援(弁護士と連携)、税理士の紹介。これらは、税法と金融の枠組みのなかで、おおむね機械的に進む。
書けない部分は、家族の関係性に関わるすべての判断だ。誰がどれだけ受け取るのが「公平」か、介護をしてきた人にどう報いるか、家業をどう継ぐか、墓をどう守るか。これらは、家計アドバイザーの専門外で、本来は家族のあいだで時間をかけて話し合われるべきことだ。私が口を挟むと、外側から「公平」の定義を持ち込むことになり、家族固有の事情を無視した提案になりかねない。
マネー記事の煽り見出しは、この区分を曖昧にする。「揉めない相続のための鉄則」と銘打って、金額の話と関係性の話を、同じ「鉄則」のなかに並べてしまう。並べた先で、読者は、家族の関係性に関する判断まで、外側の専門家のテンプレートに任せる方向に、誘導される。
金額の話と、関係性の話は、同じテーブルに並ぶが、別の議論として進めたほうがいい。
もうひとつ、「親が元気なうちにしか聞けない、お金の話」型の見出しも、よく見る。本来、親と話すべき内容(人生の振り返り、これからの希望、家族への思い)を、「お金の話」一語で全部呼ぶ。呼ばれた瞬間に、親子の会話の主題が、家族の歴史から、金額の確認に移る。
金額の確認は、必要ではある。預貯金の状況、不動産の評価、生命保険の受取人、相続税の概算。これらを把握しておかないと、相続の場で、別の問題が発生する。だが、これらの確認を、家族の関係性のなかで、どのタイミングでどう切り出すかは、家族によって違う。「親が元気なうちに」と急かす煽り見出しは、このタイミングの違いを消す。
相続の相談に来られる方のなかには、「先月、親に切り出してから、なんとなく会話がぎこちない」と話される方がいる。話す本人にとってだけでなく、聞く親の側にとっても、突然「お金の話」を切り出される経験は、たぶん独特の重さを持つ。煽り見出しに急かされて切り出すかどうかは、結局、家族の時間のなかで、本人が選ぶ話だ。
「節税のつもりが裏目に、生前贈与の罠」型の見出しは、節税効果と家族関係を、同じ計算式の中に並べることが多い。生前贈与で相続税を減らすことができる一方、贈与によって兄弟間の不均衡が生じることがある、という話だ。両方は同時に起きうる。
だが、節税効果は円という単位で測れるのに対し、兄弟間の不均衡は、家族の歴史と感情のなかでしか意味を持たない。両方を「節税のつもりが裏目に」という見出しに圧縮すると、関係性の問題が、節税の損得勘定の補助線として扱われる。本当は、節税の話と関係性の話は、別のテーブルで議論されるべきで、別の専門家(FP・税理士と、弁護士・場合によっては家族カウンセラー)が関わるべき領域だ。
独立系FPとして、私の仕事は、節税の話のテーブルにとどまる。関係性の話のテーブルには、私は入らない。入らないことが、たぶん、家族の関係性に対する誠実さに近い。
シリーズ最終回として、私が書けるのは、たぶんここまでだ。相続の判断は、その家族のなかでしか決まらない。私が書けるのは、節税の概算と、税理士・弁護士の紹介と、相続後の家計の試算ぐらいで、それより家族の側の領域には、私の手は届かない。手の届かない範囲を、煽り見出しは、外側から手で覆おうとする。覆われた家族の側で、何が起きるかは、私には見えない。
本シリーズで一貫して書こうとしたのは、煽り見出しが消した個別性を、自分の側で取り戻す、という話だった。相続については、私の側で取り戻せる範囲は、ほかの回より小さい。小さいなりに、書ける範囲を画定して、書けない範囲には踏み込まない、というのが、最終回で書ける最後のことだ。煽り見出しの「やるべき◯つ」の代わりに、私が提示するものは、ない。