森川さん、夢に連れてこられて語る
田島部長の若い頃の課長が、さらに一世代遡って『伝統』の裏側を話した夜

ワタナベ(65歳・元会社員、夢の記録者として)

田島部長が前に夢に立ってから、十日が経った。昨夜、また出た。今度は一人ではなかった。田島さんの横に、背の高い、やや前屈みの老紳士が立っていた。古い仕立ての三つ揃い、よくアイロンのかかったシャツ、金属フレームの丸眼鏡。田島さんが「俺の若い頃の課長、森川さんだ」と紹介した。森川さんは軽く一礼して、端正な口調で話し始めた。ときどき田島さんが合いの手を入れ、ときどき二人の声が入れ替わって、誰の発言か分からなくなる場面が、夢の進行とともに増えていった。目が覚めて、区別のつかない部分は曖昧にしたまま、今朝の記録に書き写す。前回の田島回顧録の続編として、遡り一世代、明治四十三年生まれの森川さんの話を、ここに置く。

森川さん、自己紹介をする

私は明治四十三年、神田神保町の生まれです。父は内務省の中堅役人で、近代日本の町村制の整備に関わっていた。母は日本橋室町の呉服商の末娘で、父が三十を過ぎてから見合いで結婚した。私は一人息子。府立第一中学、第一高等学校、東京帝国大学法学部。昭和七年に大学を出て、田島君の会社の前身、当時の商事部門に入った。昭和十三年に召集され、北支に二年いた。昭和十五年に復員して会社に戻った。戦後は昭和二十三年に課長、昭和三十四年に部長、昭和四十五年に常務、昭和五十五年に引退した。平成五年、八十三で亡くなった。田島君が私の下に配属されたのは昭和二十六年、私が課長の三年目のことだった。

この自己紹介を、夢の中で正確に言えたことに、今の私自身が少し驚いている。生前、私はあまり自分の経歴を整理して話すことがなかった。戦争の話を口にするのも嫌だった。夢になって、ようやく筋が通った。夢は、生前言えなかったことを言う場所なのかもしれません。

「伝統」という語への、私の取り分

田島君が前回、「伝統」の多くは明治以降の発明だと語ったそうですね。私もそれに半分は同意する。半分しか同意しないのは、明治自体が、それ以前の江戸の習俗を「伝統」として再発明した時代だったからです。我々は、発明された「伝統」の上に、さらに戦後の発明を重ねた時代を生きた。二重の薄片の上に立っていた。薄片は、踏み抜けば下の時代が見える。見えた下の時代にも、さらに薄片がある。下に降りると、どこまで降りても、純粋な「古来の」何かには辿り着かない。伝統とは、そういう多層の薄片の累積です。一番下に何があるかは、結局誰も見たことがない。

私の祖父は幕末の生まれで、明治の初年に二十歳だった。祖父が生前に語った「古き日本」と、明治の東京で私が育った「日本」は、すでに別物でした。祖父の時代は、髪型も、暦も、単位も、名乗り方も、言葉遣いも、今の我々が「日本の伝統」と考えるものとは違っていた。祖父は髷を切ったとき三日間泣いたそうです。散切り頭は西洋の真似であり、日本の伝統ではなかった。しかし祖父は受け入れた。受け入れた散切り頭を、今度は父の代が「日本人の普通の頭」として受け継ぎ、私の代が「髪の標準形」として享受した。三代で「日本人の髪型」が完全に入れ替わった。一つの具体の例です。

明治の「発明品」

明治政府は、最初の三十年で、今の我々が「日本の伝統」と考えるものの大半を発明した。列挙します。神社神道の国家的再編(明治元年、神仏分離令)。教育勅語(明治二十三年)。皇室典範と大日本帝国憲法(明治二十二年)。戸籍法(明治四年)と苗字の庶民への強制(明治八年)。徴兵制(明治六年)。学制(明治五年)。町村制(明治二十一年)。民法(明治三十一年、家制度の成立)。国旗国歌の事実上の制度化。紀元節の制定。修身科の設置。神前結婚式の制度化(明治三十三年)。これらは全部、江戸までなかったか、あっても形が違っていた。

私の父は内務省にいて、町村制の整備と戸籍の標準化に関わった。父は晩年、書斎で一人、「我々が作った日本は、本当に日本なのか」と独りごちていた。父は「近代日本人」を制度として作った側の人間だった。作った側が、自分の作った物を「日本の伝統」として受け入れる世代を見ながら、違和感を抱えて死んでいった。父の違和感は、私にそのまま遺産として渡された。私はその違和感を抱えて一生を過ごした。

苗字の話をしておきます。明治以前、庶民の多くは苗字を持たなかった。武士、公家、寺社関係者は持っていたが、農民・町人の大半は、屋号や通称で済ませていた。明治八年、平民苗字必称義務令により、全国民が苗字を持つことになった。このとき役所の窓口で、多くの庶民が適当に苗字を届け出た。住んでいる場所の地名、家の近くの木の名、通称、師匠から貰った字——何でもよかった。今、我々が「代々の苗字」と言って使っているものの多くは、明治八年に曽祖父か高祖父が役所で即興で決めたものです。私の母方の祖父も、「中島」という苗字を役所で思いついた、と母に話していたそうです。中島の由来は、近所の小さな川の中州の名。百五十年の「伝統」が、そこに根拠のない即興から始まっている。

大正デモクラシー、私の少年期

私の少年期は大正デモクラシーの最終期にあたります。神保町の古本屋街を毎週歩き、丸善の洋書コーナーに入り浸り、三越の催事を見物し、日本橋のライオンビヤホール、銀座のカフェー・プランタン、浅草のオペラ館。「モダン」という語が流行し、着物から洋装への切替えが中流家庭で進んでいた。私の母は大正十四年、三十歳を過ぎてから初めて既製のワンピースを着て、「東京の奥様はみんなこれです」と父に言った。父は苦笑いしていた。父は役所の中では紋付袴と洋装を使い分けていて、家ではもっぱら和服だった。

大正の東京は、自由で、西洋的で、少し軽薄で、しかし希望があった。大正十二年の関東大震災後、復興の過程で街はさらに洋風になった。同潤会アパートが代官山や青山に建ち、「都市生活」という新しい語彙が登場した。私の中学時代、週刊誌と婦人雑誌が次々に創刊された。『婦人公論』『主婦之友』『キング』『少年倶楽部』。活字文化が家庭に流れ込み、大衆の読書層が厚くなった。ラジオ放送が大正十四年に始まり、昭和初期には家電としての受信機が都市中流家庭に普及し始めた。私が中学三年のとき、わが家にも木箱のラジオが入った。夜、父と並んで音楽番組を聴いたのを覚えています。

大正デモクラシーは、短かった。昭和に入って五年で空気が変わり始めた。満州事変が昭和六年九月。それ以後、新聞の論調、教師の口調、家庭の話題、すべてが少しずつ、しかし確実に、軍事化していった。私が大学に入ったのは昭和五年で、大学生活の半ばで時代が折れ曲がった。折れ曲がった時代を、私は折れ曲がったまま生きた。

昭和初期の空気の急変

昭和六年九月十八日、柳条湖事件。関東軍が奉天近郊の南満州鉄道を爆破し、それを口実に満州全域の軍事占領を始めた。東京の新聞は、数日のうちに一斉に関東軍を称賛する論調に転じた。私の府立一中時代の恩師は、国語の教師だったが、それまで森鴎外や夏目漱石の作品を読ませていた人が、昭和七年以降、急に「日本書紀」「古事記」の講読を始めた。「日本の精神に立ち返る」と言っていた。戻るというより、新しく作る、という作業だった。

「昭和維新」という語が、私の従兄(陸軍士官学校二期下)の口から出始めた。明治維新をもう一度やり直して、西洋化で汚れた日本を純粋な日本に戻す、という運動のことらしかった。私は不審に思った。私の父が内務省で作った明治の制度を、従兄は「不純な西洋化の産物」として否定していた。祖父の代、父の代、私の代、従兄の代——わずか四代、百年足らずで、「日本」の像が四回書き換わっていた。そのたびに、「伝統に立ち返る」という語が使われた。立ち返る先の「伝統」は、毎回違う姿をしていた。

昭和七年五月、五・一五事件。昭和十一年二月、二・二六事件。陸軍青年将校と右翼思想家が「昭和維新」を掲げて要人を暗殺した。事件後、新聞は加害者を非難しつつ、同情する論調も混ざり、微妙な二枚舌を使った。国民の多くは「彼らの気持ちは分かる」と口にした。私は大学を出て会社に入ったばかりで、会議室の隅で先輩たちの会話を聞きながら、ああ、この国は自分の内側で何かを捨てようとしている、と感じていた。捨てようとしていたのは、大正デモクラシーの自由だった。

召集、北支で見た「大和魂」

昭和十三年二月、召集令状が届いた。会社から二年の休職、予備役から現役、麻布三連隊から船で天津へ、歩兵中隊配属、北支各地を転戦。昭和十五年二月に復員。この二年間の詳細は、生前はほとんど口にしなかった。夢の中なので、少しだけ話します。

戦地で見た「大和魂」は、正直に言えば、精神論と空腹と疲労と恐怖の混合物でした。兵士たちが「天皇陛下万歳」と叫んで突撃する場面は、確かにあった。しかしその前夜、同じ兵士が泥の塹壕で「うちの嫁さんがなあ」「餓鬼がまだ小さくて」と小声で泣いていた。昼の掛け声と、夜の泣き言。どちらも同じ兵士の声で、どちらも本当だった。戦中に内地で流通した「伝統的日本精神」と、前線の兵士の身体的現実は、まったく別の次元にあった。前線で「伝統」を口にする兵士は、少なくとも私の見た範囲ではいなかった。「伝統」を口にしたのは、大本営発表と新聞記事と、内地の学校の修身の教師だった。前線と内地の間には、語彙の断層があった。

上等兵で古参の山田という男が、昭和十四年冬、山西省の山中で、私に耳打ちした。「小隊長、あれ(天皇陛下万歳)をやる奴はたいてい次の戦闘で死ぬよ。やらない奴は生き残る。生き残るのは、嫁さんの顔を思い出している奴だ」。山田は私より年上で、日中戦争に三度目の召集だった。彼の観察は、戦後になって、戦場心理の研究書で裏付けられた。身を挺した精神論者より、生還を望む個人の方が、統計的には生き延びる確率が高い。これは戦中には口にできない真実だった。

敗戦、価値の大転換

昭和二十年八月十五日、私は会社の銀座本社にいた。空襲で神田の家は焼け、妻と幼い娘は千葉の親戚に疎開していた。玉音放送を、私は会社の会議室のラジオで、総務課長や経理部長と一緒に聴いた。雑音の多い放送の意味が、最初はよく取れなかった。終わってから、総務課長が「ああ、負けたんだな」と小さく言った。経理部長は何も言わず、窓の外を見ていた。私も何も言わなかった。言う言葉が、たぶん、その場の誰にも残っていなかった。

翌日から、東京は別の国になった。昨日まで「聖戦完遂」と言っていた役所の掲示板が、三日後には「平和建設」に書き換えられた。新聞の論調も一週間で切り替わった。会社の内部でも、昨日まで「お国のために」と言っていた先輩方が、「民主主義のために」と言い始めた。私の従兄(陸軍士官学校出身)は、復員後すぐに「昭和維新は誤りだった」と方向転換し、戦後民主主義運動に参加した。同じ熱量で、逆方向に走り始めた。

価値の大転換は、多くの日本人にとって、心の底が入れ替わったというより、看板を書き換える作業に近かった。看板を書き換える技術は、日本人は上手い。これは明治以来、何度も経験した訓練の成果だった。明治の最初の十年で、武士は「士族」という看板に書き換えられて、その後徐々に消えた。大正から昭和初期で、「近代市民」が「忠良なる臣民」に書き換えられた。そして戦後、「忠良なる臣民」が「民主主義の担い手」に書き換えられた。書き換える語彙は違うが、書き換える身振りは同じだった。身振りの速さと従順さが、日本近代の目立たない一貫性だった、と今の私は思います。

戦後の会社、田島君が入ってきた頃

昭和二十五年、田島君が入社したのは、ちょうど朝鮮戦争の特需が始まった頃でした。戦争でぼろぼろになった日本経済が、隣国の戦争を景気回復のきっかけにして、急速に立ち直り始めた。会社も活気を取り戻し、新入社員の募集が五年ぶりに行われた。田島君たちは、空襲と食糧難の記憶を体に残したまま、復興期の会社に入ってきた。彼らは頑丈で、物を無駄にせず、上司の理不尽にも耐えることができた。戦中の記憶が、彼らの忍耐力の原資だった。

昭和二十五年前後から、会社に労働組合が結成され、経営側と対立するようになった。ストライキが何度も行われ、会社の内部が二つに割れかけた。このとき経営側は、新しい物語を必要とした。「会社は家族だ」という物語が、ちょうどこの時期に、経営書と社内報を通じて流通し始めた。戦前の会社に「家族」の比喩は、ほぼなかった。戦前は契約関係、あるいは封建的上下関係で済んでいた。昭和二十年代後半からの「会社家族主義」は、労働運動を懐柔するために作られたフィクションでした。

ただし、フィクションとして作られたものが、三十年経つと本物の感情を育てました。経営側もフィクションのことを忘れて、自分で作った家族を、本物の家族だと信じるようになった。信じる力が、昭和後半の日本の企業文化の骨格になった。田島君が昭和六十年代に部下に「会社は家族だ」と言っていたのを、私は引退後に聞いて、懐かしいような、複雑な気持ちになった。私が昭和二十年代後半に部下に向かって最初に口にした、その同じ台詞が、三十年後にも生き延びていた。作られたフィクションが、三世代を超えて「伝統」として定着する過程を、私は内側から目撃した。

「伝統」の三層構造を整理する

ここまでの話を整理すると、我々日本人が「伝統」と呼ぶものは、大きく三つの層からなる、と私は考えます。

第一層は、江戸以前から細々と続いてきた、本当に古いもの。地方の祭礼の一部、民謡、方言、食の基層の穀物と漬物、年中行事の骨格、盆と彼岸の死者供養、田植えと稲刈りのリズム。これらは、明治以前から変わらない形を保っているわけではなくて、時代ごとに微修正を受けながら、骨格だけが継承されてきたものです。

第二層は、明治の国民国家が、西洋近代と競争するために新しく作った「近代的伝統」。神社神道、国歌国旗、学校、軍、修身、皇室儀礼、標準語、苗字、戸籍、近代婚姻、教育勅語。これらは、上から国民に配布された「伝統」で、配布から数十年経つと、配布された側が「自分の伝統」として受け取った。配布の記憶は、三代で消えた。

第三層は、戦後の産業と行政が作った「戦後的伝統」。終身雇用、年功序列、家族団欒、おせち、初詣の観光化、テレビ文化、会社は家族、七五三の量産、結婚式場産業、バレンタイン、土用の丑の日の鰻。これらは、市場と国策の組み合わせで、昭和三十年代から平成にかけて作られた。最も新しく、最も「伝統」らしい顔をしている。

我々が日常に触れる「伝統」の九割は、第二層と第三層です。第一層は、意識的に探さないと出会わない。出会ったとしても、第二層と第三層で化粧された形でしか見えない。

「歴史」という語の使われ方

「歴史的」という形容詞は、日本の政治と広告で最もよく使われる修辞の一つです。「歴史的瞬間」「歴史に残る」「伝統と歴史」「歴史的建造物」「歴史ある我が社」。この「歴史」は、多くの場合、せいぜい百年の時間を指しています。百年を超える歴史は、歴史学の教科書の中にはあるが、政治家と広告の口からはほとんど出てこない。

百年より短い時間を「歴史」と呼ぶのは、語の濫用ではありません。語を短い時間に使っても、聞き手が「長い時間」を想像する、という効果を利用した修辞です。この修辞は、明治以降、特に戦後の高度成長期、濃密に使われ続けている。「創業百年の老舗」と広告が打てば、「百年」そのものより「老舗」の語感が効く。「老舗」は千年の時間を暗示する語だが、実際の時間は百年で足りる。

「歴史」の語を耳にしたら、それがいつから始まる「歴史」か、一度数えてみるといい。多くの場合、数えた結果は驚くほど短い。驚くほど短い時間が、「歴史」という衣装で長い時間を装っている。衣装の下を見れば、百年にも満たない産業の都合か、国策の必要か、市場の要請が出てくる。

森川、結に至る

私が残したい助言は一つ。「伝統」「歴史」という語を聞いたら、次の三つを自問してください。いつ作られたのか。誰が作ったのか。誰の利益になっているのか。自問しても答えが出ないこともある。そのときは、答えが出ないこと自体を、記録しておく。自問しない人が、その語に飲み込まれる。

我々の世代は、自問する技術を十分に持たないまま、戦中の動員に飲み込まれ、敗戦後の価値転換に流され、戦後復興の高度成長に呑み込まれた。田島君の世代は、高度成長とバブルに呑み込まれた。お前の世代は、自問する技術を持てる条件にある。情報が多い。古い文献がデジタル化されて、図書館に行かなくても読める。時間がある。引退後の時間が、我々の世代より長い。技術を使え。使わないのは、持っている道具を錆びさせるのと同じです。

自問の結果、それでも「これは本物の伝統だ」と言いたい何かが残るなら、それは本物だと言ってよい。残らなくても構わない。残らない場合、お前は「伝統」という語を使わずに生きることになる。それは、たぶん、少し寂しい。しかし、語の下の空洞に気づいたまま語を使うより、寂しさを引き受けて語を置く方が、結局は誠実な生活になるはずです。

田島、最後に一言

森川さんが一通り話し終えて、一礼して夢の向こうに下がった。入れ替わりに田島部長が前に出て、最後にひと言、という顔をした。

「お前な、俺と森川さんの話を、全部信じるな。夢だ。夢は脚色する。お前の頭の中で再構成された俺たちの話は、俺たちの話の半分くらいだ。残り半分は、お前が俺たちに言わせたいことだ。俺たちに言わせたいことがあった、というのは、お前の側の問題でもあって、俺たちの側の問題でもある。どっちの問題かは、夢から覚めてから、お前が書き分けろ。書き分けた結果、俺たちの名前で流通させる価値があると思った部分だけ、残せ。残しきれない部分は、削れ。削るのは、俺たちへの礼儀だ」

田島部長が消えた。夢が終わった。

ワタナベ、目覚めて書き留める

目が覚めて、枕元のメモを読み返した。書き写しているうちに、田島部長の最後の一言が、いちばん大事な指示だと気づいた。夢の言葉を、夢の外に出すときには、「どこまでが夢の中の彼らの言葉で、どこからが私の補綴か」を、可能な範囲で書き分けなければならない。今回の記録では、森川さんの経歴の骨子(生没年、学歴、召集時期、会社での役職)は、生前に私が田島部長から断片的に聞いた情報と、会社の古い人事資料で確かめられる部分だけを残した。それ以外の、戦中戦後の体験の細部は、私の夢が、私が読んだ戦争体験記と会社史の記述を混ぜて再構成したものです。山田上等兵の話、役所の看板の書き換えの描写、父の晩年の呟き——これらは、森川さんが生前に語ったとは限らない。語ったとしても、私の記憶の中で他の文献と混ざっているので、純粋な森川さん発言として固定はできない。

それでも、森川さんの話の骨子——明治の発明、大正の短い自由、昭和初期の軍事化、戦中戦後の看板書き換え、「会社は家族」のフィクション化、「伝統」の三層構造、「歴史」という語の時間的短縮——これらの論点は、文献で確かめられる。確かめた上で、森川さんの声で語らせることに、私の側の責任で、意味を見出した。責任は私にあります。森川さん本人と、田島部長に、この記録の文責を押し付けない、ということを、最後に書き添えておく。

次に誰かが夢に出るかどうかは、分かりません。森川さんが、自分の若い頃の上司、つまり明治生まれのさらに上の世代を、次の夢に連れてくる可能性はある。遡る旅は、たぶん、幕末か、明治初年のどこかで、もう誰も連れてこられなくなって、終わる。どこで終わるかは、夢が決める。終わるまで、書き続けます。書く、という作業そのものが、退職後の私の、具体の仕事になってきた。具体の仕事が一つ残っているうちは、まだ紙切れではない。紙切れでないうちに、次の夢を待つ。

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