核は強い。打ったところは締まり、打たない分だけ柔い土間が残るという因果。締まりの足りない場所が「こん、と乾いた音」で返ってくること。その家の庭を掘った土でその家の土間をつくるという、配合に数字がないという事実。仕上げを靴を脱いで素足で歩いて確かめること。この四点は、この書き手にしか書けない。問題は、その四点のそばに、誰でも書ける叙情を並べて薄めてしまっていることだ。とくに最終段で主題を自分で解説し、「大地とつながる」という借り物の語を一度使ってしまったのが惜しい。三和土は足の裏の話なのに、観念に逃げた瞬間がある。
「その家の土で、その家の土間をつくる。大地とつながる暮らしというのは、たぶんこういうことなのだろう。」
前の一文「その家の土で、その家の土間をつくる」で、もう言い切れている。そこへ「大地とつながる暮らし」を足した瞬間、文章が急に薄くなった。これはどの自然素材エッセイの欄外にも貼れる量産シールで、左官の手の話ではない。土を握って固まり方を確かめる人間の口からは、こういう抽象は出てこない。具体が立っていたのに、わざわざ概念で言い直して台無しにしている。削るべきは前の文ではなく、この一文だ。
「ゆっくり乾くほど、土間は強くなるのだと思う。」
この書き手は、足で踏んで音で締まりを判定し、土を握って配合を決める。経験で断定できる人間だ。なのに養生の核心を「強くなるのだと思う」と逃がしている。八年やってひびを見てきたなら、ゆっくり乾かさず風を当てて割った現場の一つも知っているはずで、それを一行書けば「思う」は要らない。「思う」「かもしれない」「のだろう」が稿のあちこちにあるが、これは若手の自信のなさではなく、断言を避ける書き手の保険だ。三和土は叩いた回数が結果になる、言い訳のきかない仕事のはずだ。
「赤っぽい土もあれば、黄色がかった土もある。」
「赤っぽい」「黄色がかった」は、土を毎回握る人間の観察ではなく、土を知らない人の語彙だ。実際にその家の庭を掘った人なら、どこの現場の何色か、湿らせると色がどう変わるか、固まってからどう沈むかが一つ出るはずだ。道具も同じで、「タコ」の重さは「五、六キロ」と幅で書かれている。自分のタコの重さを、八年使って「五キロか六キロか」で語る職人はいない。樫か栗か、柄の長さ、握りの摩耗——身体が覚えている数字を、概念の重さに丸めてしまっている。
「冷たくないから、と言う人がいた。」「硬いのに、どこか柔らかい、と。」
「施主の理由を聞くのが楽しい」と書いておきながら、出てきた声が「冷たくない」「硬いのに柔らかい」という、パンフレットにも載っていそうな一般論で止まっている。楽しいと言うなら、予想を裏切る一言が要る。前作の漆喰で施主の手紙を引いたときの強さ——「私が見ていない白です」と返した、あの具体——をこの書き手は書ける。なのにここでは、施主を聞き役の小道具にしてしまっている。
「三和土は、暮らしを足元から変えるのだ。土の上に立つということを、人はそこで思い出すのだと思う。」
これは完全な解説文だ。素足で一歩のせる段(「叩いた回数が、足の裏に返ってくる」)が、すでに全部を運んでいる。それを最終段で抽象語に翻訳し直すたびに、足の裏の一行の値打ちが下がる。「暮らしを変える」「思い出す」は、主題を主題として書いてしまった要約であって、エッセイの結びではない。前作・前々作とも、書き手は最後を動作と感覚で閉じられていた。ここだけ説教に戻っている。
「流された面は均一で速いが、打たれた面には、打った人の時間が入っている。」
言いたいことは分かるし、惜しい。だが「打った人の時間が入っている」は、陶器にもパンにも畳にも置ける汎用の感慨だ。三和土でしか言えない形にするなら、「時間」ではなく回数で書くべきだ。何百回打ったか、その回数が足の裏のどの硬さになるか。直前に「何百回叩いたか」と書けているのだから、感慨に逃げず、その数字で押し切ればいい。
残すべきは四つ。打った分だけ締まり打たない分だけ柔い、という叩きの因果。締まりの足りない場所が返す「こん」という乾いた音。その家の庭の土を握って配合を決める、数字のなさ。そして靴を脱いで素足で歩き、叩いた回数を足の裏で確かめる結び。削るべきは、「大地とつながる暮らし」の一文、稿全体の留保語尾、施主の出来合いの感想、そして「暮らしを足元から変えるのだ」という最終段の解説。改稿では、土の色を実際の一つの現場の色で書き、タコの重さは自分の一本の数字で書き、結びは素足の一歩の感触だけで閉じること。意味は足の裏が運ぶ。説明が運ぶのではない。