核は強い。他社のステッカーの横に自分のを貼る引き継ぎ、貼り重なった十年分の地層、そして十六年前の自分の下手な「向」の字を現役のドアの上に見つける瞬間。この三つだけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、「カルテ」というたった一つの比喩を何度も押し売りし、最終段で主題を要約して自分に赦しを与えてしまっていることだ。この語り手は、十六年ドアの隅の紙を見てきた人間のはずだ。それなら出てくるべきは「歴史」や「記憶」といった概念ではなく、紙の手ざわりと、剥がすときの爪の感触のはずである。
「私たちは、誰も見ていないところで、見えない引き継ぎを続けている。それでいいのだと、いまでは思う。今日も私は、隅にひとつ、日付を残してくる。」
仕事讃歌の判子を自分で押して終わっています。「それでいいのだと、いまでは思う」は、どんな職業エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ムカイダソウマである必然がない。「今日も私は〜してくる」という現在形の締めも、前作(夏)の「今日も私は、見えない範囲を測りに行く」とほぼ同型で、すでに手癖になっている。余韻を作者が先に回収してしまっている。
「静かな午後、私はそのステッカーを眺めるのが好きだ。(中略)窓の外には街の音が流れていて、ドアの前にはまだ誰も来ない。私はしばらく、その紙を見つめている。」
静けさ、街の音、誰も来ない午後。「物思いにふける職人」を安く調達する書き割りです。この男は仕事中にステッカーを「眺めて好きだ」などと感傷していない。手は次の現場の段取りを考え、目はレールの埃を追っている。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。そもそも修理工は呼ばれて来るのであって、誰も来ないドアの前で紙を見つめる暇はない。
「ステッカーは、いわばそのドアのカルテなのだ。」/「けれど、ステッカーはドアのカルテなのだ。日付と社名と担当印——たったそれだけの情報に、何年ぶんもの点検の記憶が畳み込まれている。」
同じ「カルテ」という比喩を、三段目で出して、最終段でもう一度繰り返している。一度言えば十分なものを二度言うと、読者は「作者は自分の比喩が気に入っている」としか思わない。しかも「畳み込まれている」「記憶」は概念語で、紙の現物から離れていく。比喩はディテールの代わりにはならない。日付を見て前回の不具合を思い出す——その具体的な所作(三段目に芽はある)だけで、カルテという単語を一度も使わずに同じことが言える。
「押された印の傾き加減で、その日が忙しかったのか、そうでもなかったのか、わかるような気がする。」/「思ってもいなかっただろう。」
「わかるような気がする」は、観察を放棄したときに出る語尾です。十六年やってきた職人が他人の印の傾きから読み取るものがあるなら、それは「気がする」ではなく断定で言うべきだ——たとえば「斜めに押された印は、雨の日に急いで帰った跡だ」と。読めないなら書かなければいい。「思ってもいなかっただろう」も同様で、自分の過去の心情を他人事のように推量している。この語り手は自分の十六年前を「だろう」で語る人ではない。
「爪を立てて端をめくると、下から色の褪せた古い紙が出てくる。平成の日付。知らない会社の名。地層のように、点検の歴史がそこに積もっている。」
「地層」「歴史」は概念であって観察ではない。実際に貼り重なった紙を爪で剥がした人間なら、出てくるのは「歴史」ではなく、糊が乾いてパリパリに割れる感触か、いちばん下の紙だけ紙質が違って黄ばんでいることか、剥がした跡に残る糊の四角い影のはずです。「色の褪せた」も弱い。何色から何色へ褪せたのかを書かないと、見たことになっていない。
「日付を書き、印を押し、人差し指で空気を抜くように貼りつける。その一連のあいだに、前の点検から次の点検までが、私の手のなかで一度つながる。」
所作の列挙までは良いのに、最後で「私の手のなかで一度つながる」と抽象に逃げている。前作で「自分でその範囲を何度も歩いて、開く位置を足で覚える」と書けたこの書き手なら、ここも身体で書けるはずだ。引き継ぎの感覚を言いたいなら、たとえば前任者が剥がし忘れた古い印の上に自分の印が半分重なってしまう、といった具体的な失敗や手ざわりで運ぶべきで、「つながる」という説明で運ぶものではない。
「その人のことは何も知らない。」
この一文は、隣人の回想にも、すれ違った乗客の回想にも、そのまま置ける。「何も知らない」と書いたあとに、それでも紙から読み取れる一点(印の濃さ、書き慣れた数字の崩し方、いつも同じ位置に貼る癖)を出さなければ、語り手がその同業者を見たことにならない。「何も知らない」で止めるのは、書き手が本当に何も見ていないからです。
残すべきは三つ。他社のステッカーの横に自分のを貼る引き継ぎ、貼り重なった紙を剥がすときの手ざわり、そして十六年前の自分の「向」の字を現役のドアに見つける瞬間。削るべきは、「眺めるのが好きだ」の感傷的な書き割り、二度出てくる「カルテ」比喩、留保語尾、そして最終段の主題要約。改稿では、「カルテ」という言葉を一度も使わずにカルテであることを所作で示し、十六年前の自分の字は「下手だった」と評さず、いまの自分ならどう貼るかとの差(印を押す位置、字の角の取り方)で書いてください。意味は手が運ぶ。説明が運ぶのではない。