ムカイダソウマ(38歳・自動ドアの修理工16年)
自動ドアの隅には、小さなステッカーが貼ってある。たいてい戸袋の下のほう、人の腰より低い位置だ。誰も読まない。けれど剥がれかけていると、なぜか気になってしまう。
静かな午後、私はそのステッカーを眺めるのが好きだ。点検年月日、次回点検予定、会社名、それから担当者の印。それだけのことが、四角い紙の中にきちんと収まっている。窓の外には街の音が流れていて、ドアの前にはまだ誰も来ない。私はしばらく、その紙を見つめている。
日付を見れば、前に来たのがいつかわかる。半年前なら、私が前回直したのは夏のセンサーの誤検知だったか、と思い出せたりもする。ステッカーは、いわばそのドアのカルテなのだ。何月何日に、誰が、何を診たのか。紙きれ一枚が、ドアの病歴をぜんぶ覚えていてくれる。
担当印は、たいてい苗字一文字の認印だ。「佐」とか「田」とか。会ったことのない同業の誰かが、この同じ戸袋の前にしゃがんで、同じレールを掃いて、最後にこの印を押して帰った。その人のことは何も知らない。けれど、押された印の傾き加減で、その日が忙しかったのか、そうでもなかったのか、わかるような気がする。
ときどき、他社のステッカーが貼られたドアを直す日がある。メンテの契約が、よその会社からうちへ切り替わったときだ。前の会社の担当者の仕事の跡が、そこに残っている。日付の書き方、印の位置、紙の色。同じドアを、別の手が長く診てきたのだとわかる。私はその紙の横に、自分のを貼る。前任者への、声に出さない引き継ぎのようなものだ。
古いビルのドアには、ステッカーが何枚も貼り重なっていることがある。剥がさずに上から貼り続けると、十年分の点検の層ができる。爪を立てて端をめくると、下から色の褪せた古い紙が出てくる。平成の日付。知らない会社の名。地層のように、点検の歴史がそこに積もっている。剥がすときは、いつも少しだけ、申し訳ない気持ちになる。
去年、ある古い事務所ビルでドアを直していて、戸袋の下に見覚えのある字を見つけた。二〇一〇年の日付。下手くそな、角ばった「向」の字。入って一年目の私が、初めて貼ったステッカーだった。十六年前の自分が押した印が、まだ現役のドアに残っていた。あのころの私は、まさかその紙を十六年後の自分が剥がすことになるとは、思ってもいなかっただろう。
ステッカーを貼り替える瞬間が、私は嫌いではない。古いのを剥がし、戸袋を布で拭いて、新しい紙の裏紙をめくる。日付を書き、印を押し、人差し指で空気を抜くように貼りつける。その一連のあいだに、前の点検から次の点検までが、私の手のなかで一度つながる。小さな引き継ぎだ。
誰も読まない紙きれだ。けれど、ステッカーはドアのカルテなのだ。日付と社名と担当印——たったそれだけの情報に、何年ぶんもの点検の記憶が畳み込まれている。私たちは、誰も見ていないところで、見えない引き継ぎを続けている。それでいいのだと、いまでは思う。今日も私は、隅にひとつ、日付を残してくる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。