核は強い。「建具を疑う前に家を疑え」という親方の一言、下げ振りの糸が柱からじわりと離れていく場面、戸ではなく家が傾いていたという発見、そして納めた戸が「すーっ」と走って施主が「あ」と漏らす瞬間。この四点で一本立つ。問題は、書き手がその四点を信用しきれず、冒頭と末尾を既製の叙情で挟み、留保語尾で核をぼかし、最後に主題を自分で言葉にして回収してしまっていることだ。建具屋という、ミクロン単位の渋さを指で読む人物を語り手にしながら、肝心の数字と手つきが曖昧なのも惜しい。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「木の温もりに包まれた仕事だと言われることがあるが、私のしていることは、もっと素っ気ない。」
「木の温もりに包まれた」は、木工を語るときに真っ先に出てくる紋切り型で、それをわざわざ否定してみせるのも、結局その常套句に乗っかる手口です。本当に素っ気ない人物なら、温もりの話など最初から出さない。冒頭で叙情を一度持ち出してから打ち消す身振りは、否定の形を借りて叙情を味わっている、生成された“逃げ”の構文に見える。
「あの感触を初めて出せた日のことは、よく覚えている気がする。」「私はそのたび、少し寂しいような気もしたのかもしれない。」「あの「あ」のために、私はこの仕事をしているのだと思う。」
建具屋は、緩いかきついかを指で断定する職業です。「髪の毛一本ぶん」を見極める人物の回想が「気がする」「かもしれない」「と思う」で薄まっているのは、怯えではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「よく覚えている気がする」は致命的で、組子が初めて掴んだ日を、この語り手が曖昧に覚えているはずがない。覚えているなら、その日の指の感触を一つ書けばいい。
「鴨居は、その家の二階の重みを何十年も受けて、真ん中がほんの少し下がっていた。」
「ほんの少し」は概念であって観察ではない。下げ振りまで持ち出す人物が、下がりを数字で言わないのは不自然です。三分(約九ミリ)下がっていた、敷居の溝は一分窪んでいた——そう書いて初めて、家の傾きが測れるものとして立ち上がる。建具は「家の歪みの測定器」だと主題で言いたいなら、測定器が出すべきは情緒ではなく目盛りです。
「私のは、最初、味噌汁の出汁殻みたいに分厚くて」
一見うまい比喩だが、これは“職人の語り”を演出するために外から貼られた洒落で、鉋屑の手触りそのものを見ていない。本当に薄削りを覚えた人間が語るのは、屑の厚みではなく、削ったあとの桟の面が照明をどう返すか、削り過ぎて桟が一本ぶん細った失敗の苦さのはずです。比喩が場面より先に立つと、生成された“それっぽさ”になる。
「建具は、家の歪みを測る道具なのだ。重い戸、閉まらない襖、隙間の空く障子——それは家が小さな声で訴えている悲鳴で、建具屋はそれを最初に聞く者なのだと、いまでは思う。」
下げ振りの糸が柱から離れていく場面が、すでに全部を見せています。それを「家の歪みを測る道具」と抽象語で言い直し、「悲鳴」「最初に聞く者」と詩にしてしまうたびに、下げ振りの一場面の値打ちが下がる。エッセイの主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。とりわけ「悲鳴」は、家を擬人化する安い情緒で、測定器の話と矛盾している。
「あの敷居のすべりが、私をいまの私にしてくれた。鉋は、今日も研いである。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ナギラコウである必然がない。「鉋は、今日も研いである」という道具の静物画で締めるのも、余韻の偽装です。コウノアサコの第一稿が「赤鉛筆と鉛筆は、今日も静かに並んでいる」で締めたのと、判で押したように同じ型なのが、何より生成くささを露呈している。
「化学の滑り材もあるけれど、私は今でも蝋を使う。木が呼吸する道を、塞ぎたくないからだ。」
「木が呼吸する」は、伝統と自然派を称える広告コピーの定番で、職人の言葉ではない。蝋を選ぶ理由が本当にあるなら、それは詩ではなく経験のはずです——化学滑り材は埃を抱いて溝が黒くなる、蝋は乾いても粉を吹かない、引き直しが利く。具体の理由を一つ出せば、紋切り型は要らなくなる。「呼吸」で逃げた瞬間、この一段は伝統工芸パンフレットになる。
残すべきは四つ。「建具を疑う前に家を疑え」、下げ振りの糸が柱から離れる場面、敷居の溝の艶と窪み、そして納めた戸が走って施主が「あ」と漏らす瞬間。削るべきは、冒頭の「木の温もり」、留保語尾、「悲鳴」と「呼吸」の擬人化、最終段の主題解説と道具の静物画。改稿では、鴨居の下がりと敷居の窪みを数字で押さえて建具を本物の測定器にし、蝋を使う理由は経験で語り、結びは主題を言わず、戸が走る音か施主の「あ」で終わらせてください。意味は動作と寸法が運ぶ。説明が運ぶのではない。