「お大事に」を訳す(第二稿)
診察室のドアが閉まる直前の、毎回の選択

ナカガワミオ(45歳・手話通訳者20年)

診察室では、医師の斜め後ろではなく、本人の手話が見える位置に座り直す。医師・本人・私の三点を、視線が一番短く結べる角度を探す。それが最初の仕事だ。二十年やっても、椅子の角度は毎回ゼロから決める。

診察の終わりは、いつも同じ音から始まる。医師が画面に向き直り、マウスがカチッと鳴り、椅子がきしむ。「はい、ではお大事に」。日本語では、それはドアが閉まる音と同じだ。誰も中身を聞いていない。終わりの合図として発せられ、合図として受け取られる。

私はそれを手に乗せる。手話に「お大事に」の決まった訳はない。半秒で選ぶ。「体・大切」と中身で渡すか、別れの所作だけで渡すか。「体・大切」は二拍かかる。胸の前で手を返し、両手で何かを囲う形をつくる。その二拍のあいだに、医師はもう次のカルテを開いている。本人だけが、その二拍ぶん置いていかれる。

一度、ある女性に「体・大切」を出したとき、彼女がふっと顔を上げて医師を見た。何か温かい言葉をかけられたと思ったのだ。医師は彼女のほうを見ていない。私は、医師が言わなかった温度を、自分の手で足してしまっていた。訳ではなく、上塗りだ。

依頼者で手形が変わる。長く付き合うろうの男性は直訳派で、「全部そのまま出せ。判断はこっちでやる」と言う。彼には「体・大切」を渡す。先週、彼はそれを見て鼻で笑い、片手で「終わり終わり」と払った。空洞は、彼が自分で笑い飛ばす。別の女性は意訳派で、「要は終わりでしょ」と言う。彼女には別れの所作だけを下ろす。同じ三文字が、相手の手のなかで違う形になる。誰に渡すかまでが、訳だ。

「お疲れさまでした」も「よろしくお願いします」も、中身を問えば何も入っていない。誰が、何のために、いつまで——どれにも答えがない。音声の日本語では、その空っぽが角を立てずに人と人をつなぐ。私は毎回、その空っぽを手で受け取り、空っぽのままでは渡せないことを知る。手は必ず何かの形を取る。形を取れば、温度が乗る。

派遣のあと、報告書を書く。開始終了時刻、診療科、内容区分、所見の有無——欄はそれだけだ。「お大事に、を体・大切で訳出、本人が二拍ぶん置いていかれた」を書く欄はない。「所見の有無」に丸をつけて提出する。置いていかれた二拍は、どの欄にも入らないまま、私のなかに残る。あの女性が顔を上げた半秒も、そこに入っている。

いちばんいい診察は、医師の視線が私を素通りして、本人にまっすぐ向くときだ。通訳者がいることを医師が忘れる。そのとき私は透明でいられる。けれど「お大事に」の前では、私はまた不透明になる。今日も、医師の椅子がきしんだ瞬間、私の手は宙で半秒止まる。直訳派の彼の番だ。私は「体・大切」を出す。彼が、片手で払う。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。