「お大事に」を訳す
診察室のドアが閉まる直前の、毎回の選択

ナカガワミオ(45歳・手話通訳者20年)

診察室には独特の静けさがある。消毒のにおいと、白い壁と、医師のキーボードの音だけが時間を刻んでいく。その静けさのなかで、私は二つの言語のあいだに座り、片方からもう片方へ言葉を運んでいる。けれど一日に何度も、運ぼうとした手が、行き場を失う瞬間がある。

診察の終わりは、いつも同じ音から始まる。医師が画面に向き直り、マウスをクリックし、椅子がきしむ。そして「はい、ではお大事に」と言う。日本語では、それはドアが閉まる音と同じくらい自動的だ。誰も内容を聞いていない。診察が終わったという合図として、空気のように発せられ、空気のように受け取られる。

けれど私は、それを手に乗せなければならない。手話には「お大事に」という一語の決まった訳がない。だから毎回、私は一瞬で選ぶ。「体を、大切に」と、中身のある言葉として渡すか。それとも、別れの挨拶として、片手を軽く下ろす所作で渡すか。前者は内容を、後者は機能を運ぶ。どちらも正しく、どちらも何かを取りこぼす。

「体・大切」の手形は、てのひらで胸のあたりを包むようにして、それから両手で大切なものをそっと抱える形をつくる。やさしい、丁寧な手話だ。けれど丁寧すぎる。医師は別に、その人の体を案じてそう言ったわけではない。次の患者が待合室で待っている。私が「体を、大切に」と訳すと、依頼者がふと顔を上げ、医師を見ることがある。何か温かい言葉をもらったと思って。そのとき私は、ありもしない温度を勝手に足してしまったことに気づく。

依頼者ごとに、好みがある。長く付き合いのあるろうの男性は、直訳派だ。「言われたまま全部出してくれ。判断はこっちがする」と言う。彼には「お大事に」を「体・大切」とそのまま手に乗せる。意味が空洞なら空洞のまま、彼が自分で笑い飛ばす。別の女性は意訳派で、「要するに終わりってことでしょ、それでいい」と言う。彼女には別れの所作だけを渡す。同じ三文字の日本語が、相手によって違う手の形になる。訳とは、誰に渡すかまで含めた選択なのだと、こういうときに思う。

「お疲れさまでした」も、「よろしくお願いします」も、同じ構造をしている。中身を問えば何も入っていない。誰が誰を、何のために、いつまで——どれも答えがない。けれど音声日本語のなかでは、その空洞こそが機能している。空洞だから、どんな場面にも滑り込み、角を立てずに人と人のあいだをつなぐ。潤滑油は、無色透明だから潤滑油なのだ。私はその無色透明を、手という色のある媒体に移さなければならない。

派遣のあと、報告書を書く。日付、診療科、所要時間、特記事項。特記事項の欄に、「お大事に、を体・大切で訳出。依頼者の表情に変化あり」とは書かない。書く欄がない。報告書には、運べたものしか記録できない。運びそこねたもの、迷った半秒、勝手に足した温度——それらはどの欄にも収まらず、私のなかにだけ残る。二十年分、たまっている。

うまくいった日は、医師の視線が私ではなく、依頼者本人に向く。通訳者がいることを忘れて、医師がまっすぐ本人に話しかける。そういう瞬間、私は透明になれている。けれど「お大事に」のような言葉の前では、私はどうしても不透明になる。選ばなければならないからだ。選ぶ私が、二人のあいだに、影のように残ってしまう。

結局、空洞を空洞のまま渡すことは、手にはできない。手はいつも何かの形を取ってしまう。形を取れば、そこに意味が宿ってしまう。空洞を渡せないこと——それがこの仕事の本体なのだと、いまでは思う。私の手は今日も、診察室のドアが閉まる直前に、一瞬だけ宙で迷う。そしてそのささやかなためらいが、私を二十年、通訳者でいさせてくれているのだろう。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。