中原圭一(なかはら けいいち)。四十三歳、娘二人。若いころに読んだ本をいまも折にふれて開き、文章の読み方の作法を厳しく教わった過去がある。仕事のことは書かない。夏の終わりの祭りの夕方、上の娘の「なんで点がつくの」に答えられなかった一時間から登場。
得意題材:子どもの問いに答えられない場面、点数のつかないもの、分担としての休日、欠けたものを補いたくなる誘惑
声の特徴:長めの文で判断を保留する人。結論を置かず、問いのまま終える
点はつかない、と教えた手前がある。だから今日は、点をつけずに座っているつもりだった。三年生が出てくる前に、私はもう、先に出た二つの学年を頭の中で採点していた。
学校の体育館というのは、床が線だらけである。白、黄色、緑。競技ごとに違うコートの線が、同じ床の上に重ねて引いてある。どの線が有効かは、その日にやる競技が決める。今日はどの線も無効で、線の上にパイプ椅子が並んでいる。前から三列目の端に、三つ分の席が取れた。妻と、下の娘と、私である。上の娘は舞台の側にいる。
下の娘は、夏の祭りで太鼓に参った子である。だから音量を心配していたのだが、合唱というのは太鼓の逆で、二つ目の学年の途中で寝た。揃った声は、あるいは眠くなるようにできているのかもしれない。揃えるというのは、驚きを消すことだから。
採点の癖がどこで身についたのかを、寝た子を膝に載せながら考えた。祭りには審査があった。テレビの歌番組には点が出る。私の頭は、並んだものを見ると順を付けたがる。並べたのは学校で、順を付けているのは私である。娘に「なんで点がつくの」と聞かれて答えられなかった人間が、点のつかない会場で、内職のように点をつけている。
プログラムの五番が三年生の合唱だった。幕が開いて、娘を探す。声では見つからない。口で見つける。わが子というのは、声より先に口で見つかるものらしい。見つけた口は、隣の子の半分しか開いていなかった。本気が別の場所にある口だった。
前奏が一度、止まった。先生の手が上がって、初めからやり直した。子どもたちは口の形を作ったまま待っていた。誰の減点にもならなかった。点がない、というのは、やり直しが失敗と呼ばれない、ということでもあるらしい。祭りであれをやったら、たぶん順位が動く。
歌の途中で、プログラムを畳む手が止まった。「マジョリティが正しいと、みんな間違える」。そういう一行が、はっきりそう聞こえる形で来た。小学生の発表会で聞くと思っていなかった型の命題である。
こういうとき、薄めて受け取る道はいくらでもある。子ども向けの歌だから、雰囲気で言っているだけだろう、と。しかし相手の言い分は、受け取れる一番強い形で受け取ると決めている。強い形で受け取るなら、これは多数決そのものへの疑いである。多くの手が挙がった方が間違っていることがある、と、百人の子どもが声を揃えて歌っている。
声を揃えて、である。そこで引っかかった。合唱は、揃えることを練習する形式である。息を合わせ、同じ高さ、同じ拍。揃った声を疑え、という中身が、揃えることでしか歌えない形式に載っている。形式と中身が正面から衝突している。選んだ人が、気づかずに選んだのか、気づいて選んだのかは、書いていないので分からない。分からないことにしておくが、もし気づいて選んだのなら、その人は、答えではなく疑いを配る側の人である。ああいう配り方をする人の仕事を、私は昔から一つだけ知っている。
拍手が来て、幕が閉じた。膝の上の子は、拍手でも起きなかった。
帰り道、上の娘は歌の話をしなかった。来年の祭りの話をした。一年前から言っていることを、まだ言っている。一年言い続けるというのは、子どもにおいては、もう決意ではなくて体質なのだと思う。
夜、風呂の中で、自分のつけた点を思い出した。二つ目の学年に、いちばん高い点をつけていた。理由を考えると、いちばん揃っていたからである。揃った声を疑え、と歌った学年には、揃いが足りない、という点をつけていた。なんで点をつけるの、と聞かれたら、今度も答えられない。聞かれずに済んだのは、採点が頭の中にあったからにすぎない。
——補記:この一篇と 土屋良介の学芸会 は対になっています。同じ体育館の、同じ時間。今回は会釈すらありません。二人が同じ場所にいたことを知っているのは、読者だけです。