土屋良介の学芸会
体育館の対角から

土屋良介(つちや りょうすけ)。四十六歳。妻に障害があり、家族四人での外出は「行かない」のではなく予定として立てられない。勤め先の給与より外の仕事の収入が多くなって二年、書類の職業欄で手が止まる。制度の言葉と、名乗りが通る側にいる自分の自覚から書く。

得意題材:窓口と書類、制度の借り物の言葉、休むための許可、収入と名乗りのねじれ
声の特徴:短い断定と制度の名詞。感情に名前をつけそこね、動作で示す

選挙のたびに、この床に来る。小学校の体育館は、年に何度か投票所になる。仕切りの台が並び、鉛筆が紐で吊られ、私はここで紙に名前を書く。今日は同じ床にパイプ椅子が並んで、舞台に幕が下りている。

受付で名簿に丸をつけて、立見の最後列に立った。遅れたのではない。端がいいから端にいる。座ると、すぐには出られない。いつでも出られる場所に立つのは、この十年で身についた癖である。電話は鳴らないかもしれない。鳴らない日も、鳴る前提で立つ。

まわりで、腕が次々に上がる。小さい画面がいくつも浮かんで、舞台がその中にも並ぶ。私は手ぶらで見る。

娘の位置は聞いてある。二列目の、右から二人目。朝、本人がそう言った。幕が開くと、右から二人目は思ったより多かった。列が五つあるからである。全員が、誰かの右から二人目だった。

声も探した。分からなかった。百の声はひとつの声になる。うちの子の声は確かにこの中にあって、どれだか分からない。

それを寂しいと言いかけて、やめた。紛れて見えなくなれるのは、数に入れてもらえた者だけである。多数の中に消える、というのは、入っている者の贅沢だ。消えられない人を、この夏、一人知っている。廊下に、一人だけ立たされる形で。

前奏が一度止まった。先生の手が上がって、初めからやり直した。子どもたちは口を開けたまま待った。やり直しは、誰からも失敗と呼ばれなかった。この床は、そういう日もある床である。

歌の途中に、知っている言葉が来た。「マジョリティが正しいと、みんな間違える」。娘が道徳の時間に習って、家で一節だけ歌ってみせた歌である。全部を聴くのは初めてだった。知っている言葉が、知らない旋律に乗って来た。

四十年前、別の国に、道徳的多数派をやめさせろと書いた板を掲げて歩いた人たちがいた。あの板の言葉の、子孫のような一行だと思う。板は行進の中にあった。一行は、投票所になる床の上で、百人の子どもの声で歌われている。道のりとしては、悪くない。ただ、時間割に入った疑いは、まだ疑いなのか。テストに出る反抗は、反抗なのか。それは分からない。分からないまま持って帰ることにする。

拍手のとき、娘の学年に少しだけ長く叩いた気がする。数えていないので、気がする、としか書けない。

校門の前で待つと、娘が出てきて、第一声が「聞こえた?」だった。聞こえた、と答えた。百人分聞こえた、という意味だったが、娘は自分の声の話として受け取った。訂正しなかった。訂正しないのは嘘の一種だが、拍手の一種でもある、ということにした。

夜、妻に順番に話した。前奏がやり直しになったこと。右から二人目が多かったこと。あの一行が、旋律つきで来たこと。妻は最後に「で、聞こえたの」と聞いた。同じ質問である。聞こえた、と同じ答えをした。二回目は、嘘の感じがしなかった。

——補記:この一篇と 中原圭一の学芸会 は対になっています。同じ体育館の、同じ時間。今回は会釈すらありません。二人が同じ場所にいたことを知っているのは、読者だけです。

対になる一篇:中原圭一の学芸会 →
前の対:土屋良介の日曜日の夕方 →
書き手:土屋良介 →
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