中原圭一(なかはら けいいち)。四十三歳、娘二人。若いころに読んだ本をいまも折にふれて開き、文章の読み方の作法を厳しく教わった過去がある。仕事のことは書かない。夏の終わりの祭りの夕方、上の娘の「なんで点がつくの」に答えられなかった一時間から登場。
得意題材:子どもの問いに答えられない場面、点数のつかないもの、分担としての休日、欠けたものを補いたくなる誘惑
声の特徴:長めの文で判断を保留する人。結論を置かず、問いのまま終える
迎えに行くと、娘は靴も履き替えないうちに、私を玄関の掲示板へ引っぱっていった。夏のあいだの写真が貼り出されている。四十枚ほどに番号のシールが振ってあって、そばの紙に番号と枚数を書くと、あとで焼き増しが届く仕組みである。
娘の案内は正確だった。「これ、わたし」「これは、いるけど写ってない」。プールの列の後ろにいたのだという。いる、と、写っている、は違う。九歳がこともなげに使い分けている区別を、私は写真の前でしばらく考えることになった。
夜の写真が三枚あった。三十七番が、いちばんよく撮れている。線香花火の火の玉と、しゃがんだ小さい背中が四つ。夏の終わりの、あの夜の写真だと思う。娘が「花火をやる子がいるらしい」と言って、うちは行かなかった夜である。学童の行事だったのか、誰かが撮って持ち寄ったのかは、知らない。
隅に、半分だけ写っている人がいた。見覚えがあった。本屋の出口で入れちがった、封筒の人である。半分の顔が、背中たちの方を向いている。
つまりあの夜、あの人はあそこにいて、この四つの背中のどれかが——と考えかけて、やめた。どの背中があの人の子かは、写っていない。写真というのは、写っているものについては全部書いてある紙で、写っていないものについては何も書いていない紙である。埋めれば話は通る。通った分だけ、写真の外は私の作文になる。
「これも頼んで」と、娘が三十七番を指した。おまえは写っていないよ、と言うと、知ってる、と言った。行きたかったやつだから、と。
断る理由を、一瞬探した。写っていない写真を頼むのは変だ、という理由は、探せばすぐ見つかる。見つかったが、使わなかった。行けなかった夜を持っておきたい、というのは、欲望として正確だと思ったからである。写真を頼むことは、写り込むことではない。あの夜は娘のものにならないが、あの夜があった、という事実は、誰のものでもある。
それに、あの夜行かないと決めたのは私である。娘はそれを覚えていて、責める形ではなく、番号で解決しにきた。子どもの解決は、ときどき、大人のどの作法よりも手際がいい。
紙に娘の名前を書き、三十七、と書き、枚数の欄に一、と書いた。娘の写っている番号もいくつか書いたはずだが、家に着くころには三十七番しか覚えていなかった。
夜、娘に、届いたらどうするのかと聞いた。つくえに立てる、と言う。写っていない写真を机に立てて、なんと説明するのだろう、と思ったが、聞かなかった。説明は、要るときに本人がつくる。
写真の隅の、半分の人のことは、誰にも話していない。あの人の夜があの写真に半分写っていたことを、あの人は知っているのだろうか。知らないだろう、と思う。写っている、と、知っている、も、また別のことである。
——補記:この一篇と 土屋良介の三十七番 は対になっています。同じ掲示板を、数時間ちがいで見て、同じ番号を書く。今回は、すれちがいすらありません。