核は強い。杉板を一枚ずつ外して洗い、夏じゅう軒先に干すという「室をまっさらに戻す」作業。割れた麹蓋に木を継ぐ手。新米の作柄を気にしはじめる八月の蔵。これらは、冬の二作(麹室・出麹)で築いた「手で機嫌を読む人」の声を、ちゃんと夏へ伸ばしている。問題は、その良い素材を、書き手が自分で信用しきれず、蝉と日差しの書き割りで場面を立ち上げ、最終段で主題を二度も直叙して回収してしまっていることだ。冬の二作で削いだはずの癖が、夏になって戻ってきている。
「仕込みのない夏こそ、冬のための季節なのだ。」/「夏は、冬のための季節なのだ。」
最終段で同じ命題を二度押している。しかも六段目の末尾でも「夏は、冬のための季節なのだ。」と既に言っている。一本のエッセイで三回。読者が一度で受け取れる主題を、作者が信用せず、念を押して回収しにいっている。杉板を干す手と、新米を気にする八月さえ並べれば、「冬のための夏」は言わずに伝わる。主題文を書いた瞬間、それはエッセイではなく要約になる。
「蔵の外は蝉が鳴き、強い日差しが照りつけ、空気はじっとりと湿っていた。」
蝉・日差し・湿気。三点セットで「夏」を安く調達している。冬の麹室を「夜中の二時の目覚まし」と「断った納豆」で立ち上げたこの書き手なら、夏の暑さも、もっと蔵の側のディテールで出るはずだ。瓶詰めラインの近くの汗、火入れの湯気で曇る眼鏡、軒先の杉板が乾くときの匂い。一般名詞の夏ではなく、この蔵の夏を書くこと。
「温度に一年中つき合うのが、この仕事なのかもしれない。」/「冬のための季節でもある。」
「〜かもしれない」「〜でもある」は、断言を避ける作者の保険だ。十一年やってきた人間が、火入れの温度に一年つき合うことを「かもしれない」で語るのは弱い。前二作の改稿では「決めるのは私で、迷っている時間はない」と断言で立っていた。この語り手は留保で生きていない。火入れの温度を測る手が、温度計を見るより先に酒に触れるか、そこを動作で書けば留保はいらない。
「火入れは、酒を六十五度ほどに温めて、酵母や酵素の働きを止める作業だ。温度が高すぎれば酒が傷み、低すぎれば火が回らない。」
これは教科書の記述で、観察ではない。冬の麹は「手のひらを押し返す張り」「握ると指の間からこぼれる」と、手に返ってくるもので書けていた。火入れにも、この人だけの手つきがあるはずだ——蛇管(じゃかん)を通る酒の温度を何で確かめるのか、湯の沸きをどう見るのか、上がりすぎを鼻で察するのか。「六十五度ほど」と数字で逃げず、その日その火入れの手を一つ書くこと。
「店主と、今年の夏は暑いですね、と話し、秋の新酒の話を少しして、また頭を下げて次の店へ向かう。」
「今年の夏は暑いですね」は、誰が誰に言ってもいい台詞で、この語り手と特定の店主の関係が出ていない。具体的な一軒——何年つき合っている店か、店主が毎年同じことを言うのか、自分の酒のどれを置いてくれているのか——を一つに絞れば、挨拶回り全体が立つ。手土産が「地元の菓子」なのも概念どまり。何の菓子か、なぜそれか。固有名が一つ入るだけで嘘が消える。
「道具を直していると、自分の体も似たようなものだと思う。」
道具と体を並べる比喩そのものは悪くない。だが「似たようなものだと思う」と作者が先に種明かしをしてしまっている。割れた麹蓋に木を継ぐ手と、冬に夜中起きつづけて傷んだ体を、ただ隣に置けばいい。読者が「似ている」と気づく余白を、作者が埋めてはいけない。比喩は宣言するものではなく、配置するものだ。
「けれど蔵の中は、冬とはまた別の生き物のように、しんと静かだった。」
「別の生き物のように」は、どの酒蔵紀行にも貼れる汎用シールだ。しかも冬の麹を「生き物の群れ」と書いた前作の比喩を、夏の蔵に薄めて流用している。夏の静けさは、生き物の比喩ではなく、無音そのもので書くべきだ——冬には絶えなかった何の音が、夏には消えているのか。撹拌の音か、蒸気の音か、夜中の見回りの足音か。「静かだった」と言わずに、消えた音を一つ名指すこと。
残すべきは四つ。杉板を外して洗い軒先に干す室掃除、割れた麹蓋に木を継ぐ手、八月に新米の作柄を気にしはじめる蔵、そして瓶の一本一本に冬の麹の続きが入っているという一節。削るべきは、蝉・日差し・湿気の書き割り、留保語尾、「別の生き物のように」の汎用比喩、そして三度くり返した主題文。改稿では、火入れと挨拶回りを概念ではなくこの人の手と固有名で書き、最後の「夏は冬のための季節」は一度も言わずに、干した杉板と新米のニュースだけで終わらせること。意味は動作と物が運ぶ。説明が運ぶのではない。