ニシハタゴウ(52歳・市場のターレ運転手30年)
十二月の後半、数の子の木箱が、いつもの倍の高さで積まれる。海老、鮪、蟹。鮪のために通路の脇へ余分の発泡が出されて、走れる幅が普段より細い。荷は倍、往復も倍。だから朝いちばんに腰のサポーターを締め直す。普段は午後に巻くものを、年末はターレに乗る前から巻く。
この時期、通路の道が崩れる。普段は来ない買い出しの素人が、通路を歩くからだ。違いは、背中で分かる。玄人は通路の端を、荷の流れと同じ向きに歩く。ターレの気配がすれば、振り向かずに肩を半分だけ内へ入れて、体ひとつぶんの幅を空ける。素人は真ん中を、商品を上から覗き込みながら歩く。背中がどちらへ傾くか直前まで決まらない。「うしろ」と言っても、自分が呼ばれたと思わない。
だから素人の後ろでは、距離を倍空ける。玄人の背中なら、自分の歩幅で二歩ぶんあれば止まれる。素人の背中では四歩。覗き込んでいた顔が急にこちらを向いて、立ち止まるか飛び退くか、どちらにも振れるからだ。年末の通路は、この四歩を何十回も取り直しながら進む。角から飛び出す白い箱も普段の倍出るから、声も倍出す。午前のうちに喉が嗄れる。
積み方も変わる。普段は数の子の木箱を四段までにしている。製氷機前のあの角で、五段目は外タイヤが浮くからだ。年末は、その五段目を載せたくなる。一段で往復が一回減る。だから載せる朝は、角の手前を普段より一歩早く曲がり始め、体重を左の外へ、いつもより深く預ける。五段目を載せた日と、載せない日とで、あの角の声出しの位置が、半歩ずれる。三十年やって、年末のこの半歩だけは、いまも迷う。
馴染みの仲卸が、荷台越しに声を飛ばしてくる。「ゴウさん、今年もありがとうな」。一年のあいだ、目で頷くだけで荷を渡してきた相手だ。その声を背中で受けた角で、俺はブレーキを、いつもより一歩手前で踏んでいた。止まる必要のない角だった。声に止められたのだと、止まってから気づいた。
大晦日の早朝、最終便を運ぶ。これを下ろせば、市場は休みに入る。最後の数の子を積んで、あの角を曲がる。五段目は載せていない。最終便はいつも軽い。軽いから、角は素直に曲がれて、拍子抜けする。荷を下ろし、ターレを充電スタンドに差し込む。スタンドの列が、年末で初めて、全部埋まらずに残っている。
正月に一度、見回りに来たことがある。床が乾いていた。長靴の底は、製氷機からセリ場へ流れるあの一筋を、勝手に探して避けようとする。三十年そうしてきた。なのに今日はどこにも黒い筋がなく、足が空振りする。市場の正月は、止まる距離が一歩ぶん短い。短いのに、止めるものが何もない。長靴の足音だけが、誰もいない通路に響いた。
休みが明ければ、また床は濡れる。数の子の山は崩れ、五段目を迷う朝も来年まで来ない。腰のサポーターを、ターレに乗る前から巻く季節も終わる。今朝も、まだ乾いている床を見て、俺は荷の段数をたしかめ、素人の背中に四歩を空けて、走り出す。