ヌカガタモツ(52歳・鋳物工場の鋳込み30年)
うちの工場の裏に、木型の蔵がある。鋳物は砂の型から作るが、その砂の型を作るための原型が木型だ。注文が一度来た品は、その木型を蔵に仕舞っておく。また同じ注文が来たとき、また同じ品を作れるように。蔵の棚には、何十年分の木型が、静かに眠っている。眠れる職人たちの魂が、そこに宿っているようにも思える。
先日、十年ぶりの注文が来た。ある機械部品の蓋で、十年前に一度だけ作った品だった。私は台帳をめくった。木型には一つずつ番号が振ってあり、台帳に品名と棚の番地が書いてある。台帳の番地を見て、棚を探す。蔵の棚は天井まであり、番地の若いものほど奥にある。十年前の番号は、いちばん奥の、いちばん高い棚にあった。
脚立を立てて、埃をかぶった木型を下ろす。下ろしてみると、木が痩せていた。木は生きているから、長く置けば乾いて縮み、反る。蓋の縁が、わずかに歪んでいた。このまま砂に押しつけても、型は取れる。取れるが、できる鋳物が歪む。私はしばらく、その歪みを見ていた。
木型は、できあがる鋳物より、一回り大きく作ってある。縮み代という。鉄は冷めると縮む。湯のときの寸法のまま固まるわけではなく、冷えながら一割弱ほど縮む。だから木型職人は、最初から縮む分を見越して、大きめに彫る。鋳鉄なら千分の十ほど、銅合金ならもっと縮む。図面の寸法から逆算して、木型の寸法を決める。冷えた先の寸法を、彫る前から計算しておく仕事だ。
痩せた蓋の木型は、結局、木型屋に出して修正してもらうことにした。縁を盛り、削り直す。新しく彫るより安い。十年に一度の注文のために、新品を彫るのは割に合わない。けれど、捨てるわけにもいかない。木型がなければ、二度とその品は作れないからだ。木型は、注文の記憶そのものなのだと思う。
蔵には、もう注文の来ない木型もたくさんある。作っていた会社が潰れた品、規格が変わって廃番になった品。場所は有限だから、いつか捨てる判断をしなければならない。年に一度、棚を見渡して、もう来ないと見切った型を、処分の山に積む。割って薪にするか、燃やすか。あの山を見るのは、あまり気持ちのいいものではない。長年の相棒との別れのようで、胸が痛む。
蔵のいちばん奥に、現役で最も古い木型がある。昭和の終わりに、もう亡くなった木型職人が彫ったものだ。今でも年に何度か注文が来て、現役で使っている。手に取ると、彫りの面が今の機械彫りとは違う。鑿の痕が、わずかに残っている。木の選び方も違う。狂いの出にくい、目の詰んだ良い材を選んである。良い型は、半世紀もつ。職人の腕が、そのまま型の寿命になる。
いっぽうで、工場には3Dプリンタで作る型も入ってきた。データを送れば、樹脂で原型が出てくる。木型のように痩せもせず、反りもせず、図面どおりの寸法で、夜のうちに出来あがっている。一点物や試作には、こちらのほうが速い。私たちの工場は今、蔵いっぱいの木型と、その新しい機械の、両方を持っている。古いものと新しいものが、同じ屋根の下にある。
けれど、と私は思う。3Dプリンタの樹脂型は、一度使えば捨てる。蔵には残らない。十年後にまた注文が来たら、またデータから出力すればいい。蔵に積まれた木型は、注文と注文の間の、長い空白を覚えている。十年でも、半世紀でも、棚の上で待っている。木型の蔵は、この工場の記憶そのものなのだ。私は今日も、台帳をめくり、棚の奥に手を伸ばす。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。