核は強い。並んだ傘がみな同じ側の骨を折っているという観察、「風に勝てる差し方はない、畳むのが正解」という客への答え、応急の針金を「仮の骨」と呼んでまた雨へ送り出す段取り、そして駅前のゴミ箱にあふれるビニール傘との対比。この四点だけで一本立つ。問題は、書き手がこの観察を信用せず、冒頭で借り物の叙情を貼り、留保語尾で逃げ、最終段で観察の意味を二度三度と自分で解説して回収してしまっていることだ。この語り手は骨の折れ口を読む人間である。読む人間が、読者にまで読み下してやってはいけない。
「窓の外には昨日の名残の風がまだ少し吹いていて、店のなかには油と真鍮の匂いが静かに満ちている。」
前作の辛口レビューで叩いたはずの「雨・匂い・静けさ」の三点セットが、また出ている。語り手を真鍮の匂いで包めば職人の店が安く立ち上がる、という生成の手癖だ。三十八年その台に座った人間の朝に立つのは、匂いではなく、ガラス越しに見える列の長さ、誰がいちばん前か、何本の傘が濡れて重そうか、のはずだ。情景ではなく、列を数える目で書き出してほしい。
「突風というのは、傘にとっての一斉試験のようなものなのかもしれない。落第した骨だけが、私の台の上にやってくる。」
比喩そのものは悪くない。だが「〜のようなものなのかもしれない」と、自分の比喩に保険をかけている。「同じ側の骨が折れている」という事実を先に置けば、一斉試験という言葉はなくても読者が勝手にそう感じる。比喩を地の文で宣言した瞬間、観察は例え話の挿絵に格下げされる。言うなら言い切るか、いっそ言わずに折れ口を見せるかだ。
「昨日の風がどれくらいだったかが分かるような気がするのだ。」「その違いは、傘ではなく、持ち主の側にあるのだろうと思う。」「受け入れていくように思う。」
骨の折れ方で風と持ち主を読む、と豪語する職人の回想が、「気がする」「のだろう」「ように思う」で薄まっている。この語り手は前作で「骨は嘘をつかない」と断じた人間だ。同じ口が、自分の専門である風の強さを「分かるような気がする」と濁すのは、若手の自信のなさではなく、断言を避ける作者の逃げに見える。読める、と言い切れる場所では言い切らせること。
「先頭にいたのは年配の男性で、骨が三本、同じ側で折れた傘を差し出した。受け取ると、ずしりと水を含んでいた。」
「年配の男性」は人物ではなく属性だ。前作の女性は「籐の染みを下から握る、右利きで杖のように突く人」だった。あの解像度がここにはない。差し出された傘のどこを見たのか——持ち手の脂か、畳み癖か、骨の番号か。三本折れたなら、その三本が連番だったのか飛んでいたのか。連番なら一撃、飛んでいるなら畳んだまま二度叩かれた骨だ。職人なら、その差が見えるはずである。
「捨てる傘と、直す傘。その違いは、傘ではなく、持ち主の側にあるのだろうと思う。」
ゴミ箱に口を開けて突き刺さったビニール傘、という映像はこの稿で一番強い。なのに直後で「違いは持ち主の側にある」と要約してしまう。映像が言い終えていることを、抽象語で言い直すたびに、ゴミ箱の絵の値打ちが下がる。説明を消し、捨てられた傘と、わざわざ番号札を握って戻ってくる傘とを、並べて見せるだけでいい。差は読者が引く。
「落ちた傘の山は、過ぎていった風の強さの記録なのだ。」「私は、その記録を読む人間として、ここに三十八年座ってきたのだと、いまでは思う。」
これが一番の病巣だ。「同じ側に折れた骨」をさんざん見せておいて、最後に「傘の山は風の記録なのだ」と直叙で念を押し、さらに「記録を読む人間として座ってきた」と自分に勲章を授けて終える。前作レビューと同じ「私をいまの私にしてくれた」型の自己赦しだ。主題を主題文で書いたらエッセイは要約になる。「風の記録」という言葉は一度も書かず、折れ口だけで読者に記録だと悟らせること。
「その繰り返しのうちに、列はいつのまにか消えている。」
この一文は、ラーメン屋の回想にも、確定申告明けの税理士の回想にも、そのまま置ける。一週間で列がほどけるなら、最後に戻ってきた番号札は何番だったのか、針金を外したとき骨はどう戻ったのか、具体が要る。「いつのまにか」は、見ていない時間の言い換えだ。
残すべきは四つ。みな同じ側の骨を折って並ぶ列、「風に勝てる差し方はない、畳むのが正解」と言うと客が笑うやりとり、針金を「仮の骨」と呼んで雨へ送り出す段取り、駅前のゴミ箱のビニール傘との対比。削るべきは、冒頭の匂いの書き割り、「一斉試験のようなもの」の保険つき比喩、「気がする/のだろう」の留保語尾、そして最終段の「風の記録なのだ」という直叙と自己赦し。改稿では、折れた骨の連番/飛びの差を一行で見せて「読める」を動作で証明し、ラストは記録という語を使わず、静まった台に残る最後の一本の折れ口だけで閉じること。意味は折れ口が運ぶ。解説が運ぶのではない。