突風の、翌日
同じ側の骨が折れた傘が、店の前に並ぶ朝

オリグチハジメ(60歳・傘の修理職人38年)

突風の翌日は、店の前に列ができる。窓の外には昨日の名残の風がまだ少し吹いていて、店のなかには油と真鍮の匂いが静かに満ちている。みな傘を手にして、開店を待っている。三十八年やっていると、この朝の景色だけで、昨日の風がどれくらいだったかが分かるような気がするのだ。

並んだ傘を見ると、不思議なことに、みな同じ側の骨が折れている。右からの風だった日は、傘の右の骨が、左からの風だった日は、左の骨がやられている。風は街じゅうの傘を、同じやり方で一斉に壊す。突風というのは、傘にとっての一斉試験のようなものなのかもしれない。落第した骨だけが、私の台の上にやってくる。

「差し方が悪かったんでしょうか」。そう訊く客が、必ずいる。私はいつも、こう答えることにしている。「風に勝てる差し方なんて、ありませんよ。畳むのが正解です」。すると、みな笑う。傘は、差すために持っているのに、いちばん安全なのは差さないことなのだ。その矛盾を、客は笑いながら受け入れていくように思う。

今年の春一番は三月一日だった。その翌日も、列ができた。先頭にいたのは年配の男性で、骨が三本、同じ側で折れた傘を差し出した。受け取ると、ずしりと水を含んでいた。前の晩、相当な雨と風だったのだろう。骨の折れ口は、しなって関節の手前で一気にいく、いつもの風の折れ方だった。

繁忙の日は、全部をその場では直せない。だから応急処置だけして、順番待ちの札を渡す。折れた骨に針金を一本添えて、とりあえず差せるようにしておく。「これで一週間はもちます。本直しはそのあとで」。札には番号を書く。客はその番号を握って帰っていく。針金は仮の骨だ。仮の骨で、人はまた雨のなかへ出ていく。

駅前のゴミ箱は、突風の翌日、いつもビニール傘であふれている。骨の折れたビニール傘が、口を開けたまま何本も突き刺さっている。あれは捨てられた傘だ。風に負けて、そのまま見捨てられた。けれど私の店に来る傘は、同じ風に負けても、捨てられなかった傘だ。捨てる傘と、直す傘。その違いは、傘ではなく、持ち主の側にあるのだろうと思う。

応急の針金を当てた傘たちが、一週間ほどかけて、ぽつぽつと戻ってくる。番号札を持って、本直しを受けに来る。繁忙は、こうして少しずつほどけていく。針金を外し、継ぎ骨を当て、かしめる。仮の骨を、本物の骨に換えてやる。その繰り返しのうちに、列はいつのまにか消えている。

突風から一週間も経つと、店は嘘のように静かになる。台の上には、もう列の名残はない。私はひとり、最後の一本に継ぎ骨を当てている。落ちた傘の山は、過ぎていった風の強さの記録なのだ。同じ側に折れた何十本もの骨が、昨日の風がどちらから吹いたかを、黙って語っていた。私は、その記録を読む人間として、ここに三十八年座ってきたのだと、いまでは思う。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。