オリハラミツル(59歳・百貨店施設管理36年)
閉店のアナウンスが流れ、シャッターが半分まで下りると、什器に白い布カバーがかかる。売り場の照明が一段落ち、空調が止まる。空調が止まったあとは、変圧器のうなりと、自分の靴音と、止めたばかりのエスカレーターのモーターが冷えていく音だけが残る。昼間とは別の建物だ。私の夜は、ここから始まる。
点検はエスカレーターから回る。まず電源を切って、止める。動いているあいだは誰も見ない機械だ。乗る人は自分が上へ運ばれることだけを信じて、足元のステップを見ていない。見られていないところを見るのが、私の仕事だった。
止まったエスカレーターを、私は階段として降りる。ステップの蹴上げは二十一センチ、奥行きは四十センチ。普通の階段の蹴上げは十八センチだから、三センチ高い。たった三センチだが、足は知らない。一段ごとに、重心が前へつんのめる。動かない機械の上で、足だけがまだ昔の速さで降りようとしている。三センチを、私は三十六年、毎晩踏み外しそうになってきた。
ステップの境目に、コムプレートという櫛がある。金属の歯の並んだ板で、ステップの溝と噛み合って、人や物を挟ませない。動いているときは、ただの縞だ。止めてしゃがむと、一枚の板に何十本の歯が見える。私は懐中電灯で歯の欠けを探す。一本でも折れていれば、板ごと替える。歯は一本ずつは外れない。ビス四本を緩めて板を起こすと、裏に、折れた歯の先が一片、噛み込んだまま挟まっていることがある。それを抜いて、欠けた歯が誰のストッキングを噛んだのかを考えないことにして、新しい板を留める。
手すりベルトの速度を合わせる。手すりとステップは同じ速さで動かなければならない。手すりが遅れると、乗っている人の腕がだんだん後ろへ引かれ、年寄りはそれでバランスを崩す。ステップに印をつけ、手すりの同じ位置に印をつけ、一周させてずれを測る。継ぎ目のゴムが硬くなると、そこで速度が落ちる。継ぎ目を指でなぞると、夏と冬を何年もくぐったゴムの疲れが、爪の先に返ってくる。
緊急停止ボタンを押す。乗降口の足元、目立たない場所の赤いボタンだ。押しても急には止まらない。少し進んで、それから止まる。私は止まった位置までの距離を測る。上りの許容は六十センチ以内、と決まっている。今夜は四十二センチで止まった。範囲内。停止距離が伸びていれば、ブレーキが減っている合図だ。誰も乗っていない夜のエスカレーターを、私は何度も急停止させる。昼間なら客が転ぶ動作を、無人の機械にだけ、繰り返させる。
ステップを何枚か外して、下を覗く。櫛の歯のあいだから吸い込まれた落とし物が溜まっている。ボタン、レシート、片方のイヤリング、子どもの飴玉、小銭。一円玉と十円玉が多い。百円玉は、めったに落ちていない。私は集めて、清掃記録に「下部清掃済」と一行書く。フロアごとにサインをして回る。三階、異常なし。四階、コム交換、ビス四本。五階、異常なし。同じ字を、夜のあいだに何枚も書く。
開店十分前。私は電源を入れる。誰も乗っていないのに、ステップがゆっくり動き出す。上りも下りも、無人のまま回り続ける。冷えていたモーターがまた温まり、ベルトと歯が噛み合う音が、まだ眠っている売り場に戻ってくる。やがて照明が全部点き、シャッターが上がり、客が来て、誰も足元を見ないまま上へ運ばれていく。夜のあいだ私が数えた歯の上を、今日も知らない誰かが通っていく。三センチを踏み外しそうになる足は、もう私の足にしか残っていない。