オリハラミツル(59歳・百貨店施設管理36年)
閉店のアナウンスが流れ、客が引き、シャッターが半分まで下りると、百貨店は別の建物になる。売り場の照明が一段落とされ、什器に白い布カバーがかかり、昼間あれだけ賑やかだったフロアが、急にがらんと広くなる。静寂が、まるで何かを待つように、フロア全体に満ちていた。私の夜の仕事は、ここから始まる。
夜の点検は、エスカレーターから回る。まず電源を切って、止める。動いているあいだは誰も見ない機械だ。乗る人は、自分を上へ運んでくれることだけを信じて、足元のステップなど見ていない。私の仕事は、その見られていないところを見ることだった。
止まったエスカレーターを、私は階段として降りていく。けれどこれが、何度やっても体が慣れない。段の高さが、普通の階段とは違うのだ。エスカレーターのステップは、階段よりわずかに高く、奥行きが浅い。頭では止まっていると分かっているのに、足のほうは、まだ動くものだと思っている。一段ごとに、体の重心がほんの少し前につんのめる。動かない機械の上で、体だけが昔の動きを覚えている。
ステップとステップの境目に、櫛のような部品がある。コムプレートという。金属の細い歯が並んでいて、ステップの溝と噛み合いながら、人や物を挟まないようにしている。動いているときは、ただの縞模様にしか見えない。止めて、しゃがんで、初めて一本ずつの歯になる。私は懐中電灯で照らしながら、歯の欠けを探す。欠けた歯は、子どもの靴紐や、女性のストッキングを噛む。だから一本でも折れていれば、その場で交換する。新しいコムは、まだ手の脂がついていなくて、よそよそしく光っていた。
手すりベルトの速度を合わせるのも、夜の仕事だ。手すりとステップは、本来は同じ速さで動かなければならない。手すりのほうが遅れると、乗っている人の腕が、だんだん後ろへ引かれていく。年寄りはそれでバランスを崩す。私はステップに印をつけ、手すりの同じ位置に印をつけ、一周させて、ずれを測る。継ぎ目のゴムが硬くなっていれば、そこで速度が落ちる。継ぎ目を指でなぞると、夏の暑さと冬の冷えを何年もくぐった、ゴムの疲れが伝わってきた。
緊急停止ボタンも、毎晩押す。乗降口の足元、目立たない場所に赤いボタンがある。押すと、機械は急には止まらない。少しだけ進んで、それから止まる。この「少しだけ」が規定の範囲に収まっているかを確認する。停止距離が伸びていれば、ブレーキが減っている合図だ。誰も乗っていない夜のエスカレーターを、私は何度も急停止させる。昼間なら客が転ぶ動作を、無人の機械にだけ、繰り返しさせる。
ステップの下には、落とし物が溜まる。櫛の歯のあいだから、小さなものが吸い込まれていくのだ。ステップを何枚か外して下を覗くと、出てくる出てくる。ボタン、レシート、片方だけのイヤリング、子どもの飴玉、小銭。一円玉と十円玉が多い。百円玉は、めったに落ちていない。人は、価値のあるものほど、しっかり握っているのだろう。それとも、と思うが、考えても伝票に書く欄はない。私は集めて、清掃の記録に「下部清掃済」と一行書く。
布カバーのかかった什器のあいだを抜けて、各階を昇り降りする。点検記録に、フロアごとにサインをしていく。三階、異常なし。四階、コム一本交換。五階、異常なし。同じ字を、何枚も書く。夜のあいだ、この巨大な建物の中で起きていて、機械と向き合っているのは、私一人だった。けれど、不思議と寂しくはなかった。むしろ、止まった機械にこそ、施設管理の本領があるのだと、私はこの夜の点検のたびに思うのだった。
開店十分前。私は最後に、エスカレーターの電源を入れる。誰も乗っていないのに、ステップがゆっくりと動き出す。無人のエスカレーターが、上りも下りも、静かに回り続ける。その音だけが、まだ眠っている売り場に響く。やがて照明が全部点いて、シャッターが上がり、客が来て、誰も足元を見ないまま、上へ運ばれていく。夜のあいだ私が一本ずつ数えた櫛の歯の上を、今日も知らない誰かが通っていく。それでいい。見られないことが、いちばんの異常なし、なのだから。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。