核は強い。「魚を見ろじゃない。食べ残しを見ろ。残した餌が、体調を教える」という先輩の一言、薬入りの餌につける印、ペンギンの一羽ごとの呑み方、そして閉館後に食べ残しを秤にかける夜の作業。この四点だけで一本立つ。問題は、書き手がその四点を信用せず、青い水槽のロマンを何度も持ち出して場面を飾り、最終段で全部を解説して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、刃物と秤で生きているはずの職業を語り手にしながら、肝心の数字や手つきが具体になりきらず、観念で代用されている箇所が残ること。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「あの朝、食べ残しを見ろと言われた日が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、オオサコミナトである必然がない。しかも「と思う」と留保まで足して、自分の断定からも逃げている。換気扇とアジの静物画で締めるのも、余韻の偽装です。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めてしまっている。
「青い水の向こうで、子どもたちがイルカに歓声をあげている。その光景はたしかに美しくて」/「青い水槽の光が幻想的なバックヤードを少しは想像していた」
「青い水槽」「幻想的」「美しい光景」は、水族館と聞いて誰でも書ける既製の絵です。しかもこの語り手は冒頭で「水槽の前に立つ時間はほとんどない」と宣言している。その人物がイルカの歓声を二度も舞台装置に使うのは矛盾で、調餌室から見えるはずもない光景を、雰囲気のために借りてきている。出てくるべきは青い光ではなく、解凍庫の温度計の数字か、まな板に残るウロコか、換気扇でも抜けきらない匂いのはずです。生成された“それっぽさ”の典型。
「下手だったのだと思う。」「二十二歳の春のことだ。(中略)少しは想像していたのだと思う。」「私をいまの私にしてくれたのだと思う。」
調餌は数字で生きている職業です。何グラム、何度、何分。曖昧は事故につながる。その人物の回想が「〜のだと思う」で何度も濁るのは、若手の自信のなさの描写ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「下手だったのだと思う」は、先輩が透かして無言でバットに戻した、という鮮烈な動作をわざわざ説明で打ち消している。動作が語っているのだから、語り手は黙っていい。
「解凍にも決まりがあった。急いではいけない。(中略)冷蔵庫で、ゆっくり、時間をかけて戻す。」
「ゆっくり」「時間をかけて」は概念であって観察ではない。七年やった人間なら、温度と時間が出るはずです(何度の冷蔵庫で一晩、芯温が何度を超えたら使わない、という具合に)。同様に、薬入りの餌の「印」も、「爪楊枝を刺すとか、切れ込みを一本余分に入れるとか」と例を二つ並べた時点で、実際にどちらを使っているのかが消えている。本物の現場には流儀が一つあるはずで、選択肢を列挙するのは、見ていない人の書き方です。
「閉館後、各水槽から下げられてくる食べ残しを、私たちは一つずつ秤にかける。」
このエッセイの主題は「健康は裏の秤の上にある」なのに、肝心の秤に一度も数字が乗っていません。何グラム残ったら異常とみなすのか、昨日との差をどう記録するのか、カルテのどこに書き戻すのか。主題を担う道具が、動作の名前だけで通り過ぎている。クライマックスの装置を、いちばん効く場所で具体にしていない。ここが数字で書けていないせいで、「食べ残しを見ろ」の核まで観念に見えてしまう。
「観客が見るのは元気な魚で、私が見るのは、食べ残された魚のほうだ。」/「水槽の中のきらきらした健康は、裏の、この秤の上にあった。」
先輩の「食べ残しを見ろ。残した餌が、体調を教える」が、すでに全部言っています。それを「観客が見るのは/私が見るのは」と対句で言い直し、「裏の秤の上にあった」と抽象語で締め直すたびに、先輩の一言の値打ちが下がっていく。エッセイの主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。
「今日の仕事は昨日の私が半分やっている。そういう仕事だった。」
この一文は、仕込みのある料理人にも、夜に翌日の準備をする教師にも、そのまま置ける。気のきいた一般論で、調餌係である必然がない。前夜に解凍バットを出す具体がすぐ前にあるのだから、その動作だけで足りる。標語に丸めた瞬間、せっかくの観察が誰のものでもなくなります。
残すべきは四つ。先輩の「食べ残しを見ろ」、薬の印(流儀を一つに決めて書く)、ペンギンの呑み方の差、そして夜の秤。削るべきは、青い水槽とイルカの歓声の書き割り、「〜のだと思う」の留保、最終段の対句と主題解説。改稿では、秤に必ず数字を一つ乗せ、解凍を温度と時間で書き、薬の印は爪楊枝か切れ込みのどちらかに決めてください。意味は数字と動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。