オオサコミナト(29歳・水族館の調餌係7年)
私の職場は館の裏の、窓のない調餌室だ。出勤は開館の三時間前。前掛けには魚の匂いが染みていて、家の洗濯機を一度回したくらいでは抜けない。換気扇を回し、まな板を出し、出刃を研ぐ。一日は包丁の音で始まる。
調餌、と書いて、餌を調える。2019年の春、二十二歳で飼育部に入った私に渡されたのは、出刃と、まな板と、解凍したアジの入ったバットだった。最初の仕事はアジを三枚におろすこと。一枚目を頭から落とし、中骨に沿って包丁を入れる。先輩は私のおろした身を一枚つまんで光に透かし、何も言わずにバットに戻した。
切るだけではない。魚は一尾ずつ行き先が違う。大きな個体には大きく、小さな個体には小さく。イカは皮を剥いて細くする。そして薬。投薬の要る個体には、餌の腹に薬を仕込み、尾びれに切れ込みを一本余分に入れる。それが私の館の印だった。外からは薬入りとわからない餌を、誰の口にも入れ違えないための、たった一本の切れ込み。
個体別の餌のカルテがあった。誰が何グラム、何を、いつ。ペンギンは識別バンドの色で呼ばれ、その横に呑み方が書いてあった。頭から呑む派、尾から呑む派。尾から渡すと吐き出す子がいる。七年分の、誰かの観察が積み上がった綴りだった。
解凍にも決まりがある。レンジで戻すとドリップが出る。だから前の晩、四度の冷蔵庫に翌朝のぶんを移しておく。芯まで戻っても五度を超えさせない。前日の夕方に出す、その動作が、翌朝の餌の鮮度を決めた。
配属されて間もない朝、先輩に言われた。「魚を見ろじゃない。食べ残しを見ろ。残した餌が、体調を教える」。私はそれまで、きれいに切ることばかり考えていた。先輩が見ていたのは、切る前ではなく、食べたあとだった。
閉館後、各水槽から食べ残しが下げられてくる。私はそれを一尾ずつ秤に載せる。カルテに与えた量を書いてあるから、引き算をすれば残量が出る。いつも完食する子が八グラム残した日があった。翌朝、獣医に伝えた。その子は三日後に薬の餌を呑むことになる。尾びれに切れ込みの入った、あの一尾を。
七年。直した字ではなく、切った魚の数なら数えられない。覚えているのは数字のほうだ。四度の冷蔵庫、五度の芯温、八グラムの食べ残し、切れ込み一本。今朝も換気扇は回っている。まな板の上には、昨日の私が冷蔵庫に移しておいたアジが、戻りきって並んでいる。