核は強い。椅子に座る向きでいい耳が分かること、二十年同じ耳で電話を受けてきたのに「考えたことがなかった」と言う人、クロスが「悪い耳で聞くのではなく、悪い耳に届いた音をいい耳に運んで聞かせる」機械だという一行、そして医療と補聴のバトンが「私の台のうえ」で渡るという把握。ここは書き手の二十四年が出ている。問題は、その強い観察の前後を、既製の叙情と保険の語尾と主題の言い直しで薄めていることだ。とりわけ、せっかく「電話の耳」という一点を見つけておきながら、最終段でそれを自分で解説して台無しにしている。
「音の世界の半分を失った人の、聞こえの地図だ。」
「音の世界の半分」は、片耳難聴と聞けば誰でも書ける詩的なシールです。この語り手が一日中見ているのは「世界の半分」という比喩ではなく、赤の丸の線と青のバツの線が、どの周波数で、何デシベル離れて沈んでいるかという数字のはずです。直前の「右は赤の丸、左は青のバツ」は具体で良い。なのに次の文で抽象の毛布をかけてしまう。装置の言葉を一枚はがして、図そのものを見せてください。
「体のほうが先に、いい耳を選んでいたのだろう。」/「医療の終わったところが、補聴の始まるところなのかもしれない。」
この語り手は、椅子の向きと電話の耳という観察から、本人より先に「いい耳」を当てる人物です。その人が「選んでいたのだろう」と推量で逃げるのは弱い。観察で当てたのなら「選んでいた」と言い切れる。「補聴の始まるところなのかもしれない」も同じで、毎日その場所でバトンを受け取っている人間が、自分の仕事の境目を「かもしれない」で濁すのは保険です。前作までのこの書き手は「これ以上は機械では届きません」と言い切れた。語尾だけ別人にしないこと。
「片耳の相談とは、欠けた半分をどう補うかではなく、残った耳をどう生かすかの相談なのだと、いまは思う。」
最終段で主題を主題文として書いてしまっています。「残った耳をどう生かすか」は、本文の「まずいい方の一台から」「残った耳をどう生かす」という実務がすでに行為で示している。それを抽象語で要約し直すたびに、椅子の向きや電話の耳という具体の値打ちが下がる。エッセイの結論を結論として書いたら、それは要約です。この一文は丸ごと削れる。
「二台で一つの聞こえを作る作業だ。」/「二台で一つの聞こえなのだ。」
同じフレーズを二度、しかも一度は説明として、もう一度は最終段の念押しとして置いています。「頭の真ん中で音が一つにまとまるかを確かめる」という具体がすでにこの意味を運んでいるのだから、標語化した「二台で一つの聞こえ」は不要です。とくに最終段の再掲は、自分の決めた決め台詞を自分で二度言う形になっていて、白ける。フレーズを大事にするなら、一度だけ、いちばん効く場所に置くこと。
「悪い方の耳に小さな送信機を着けて、そこに来た音を、いい方の耳へ電波で飛ばす。」
クロスの仕組みの説明としては正しいが、これはカタログにも書いてある。二十四年の技能者が書くなら、ここに台のうえの手つきが要る——送信機の側にはマイクだけ、受信の側に音を出す本体、左右で耳栓の塞ぎ方が違う、といった、合わせる人間にしか分からない一点。いまの文は誰が書いても同じ汎用説明で、職業の手が見えない。「適応の見極め」も「しばらく着けて見極める」で済ませず、何を見て見極めるのか(運ばれた音と自分の声がぶつからないか、等)を一つ具体で。
「『人の多いところが嫌になった』と言う人の半分は、性格ではなく、この疲れの話をしている。」
「半分は」という数字が、観察ではなく、文章を賢く見せるための飾りになっています。技能者なら「半分」とは言わず、「この前の人もそうだった」と一人を出すか、あるいは黙って疲れの中身だけ書く。一般論で人をまとめた瞬間に、目の前の一人がいなくなる。前作の父娘や蕎麦屋の常連のように、固有の一人で語れたはずの場面です。
残すべきは四つ。赤の丸と青のバツが別々の高さに沈む図、椅子の向きと「考えたことがなかった」電話の耳、「悪い耳に届いた音をいい耳に運んで聞かせる」というクロスの一行、そして医療と補聴のバトンが台のうえで渡るという把握。削るべきは、「音の世界の半分」の叙情、「だろう/かもしれない」の保険、最終段の主題解説、二度言う「二台で一つの聞こえ」。改稿では、電話の耳を結論の説明に使わず、最後に本人へ「次は反対の耳で受けてみてください」と渡す動作で閉じてください。意味は動作が運ぶ。語り手が解説してはいけない。