核は強い。三秒では「ありがとうございました」を言い切れないという事実、トレーの角度で受け取る手を測る手つき、そして深夜二時のトラック運転手の「あんたも夜中まで大変だな」。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、テールランプを夜に溶かし、ETCの普及に紋切り型の哀感を添え、最終段で「私をいまの私にしてくれた」と自分で判子を押して回収してしまっていることだ。三秒で人を読むと言い張る語り手が、語尾では「〜と思う」を連発している。観察者の設定と、文体が噛み合っていない。
「窓口は減り、私の仕事も終わったけれど、あの夜の三秒が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、オオツカミノルである必然がない。三秒の観察者なら、結論を述べるのではなく、最後に見た一台の客のしぐさを一つ置いて終わるべきです。意味は読者が拾う。作者が拾ってはいけない。
「テールランプが、夜の中にゆっくり溶けていった。」/「トラックのテールランプは、今でも目を閉じれば、夜に溶けていく。」
テールランプが夜に溶ける、は既製の叙情装置です。しかも二度使って、結びでわざわざ反復している。三秒しか見ていない収受員が、走り去る車の尾灯をうっとり見送る余裕はない。次の車がもう来ているからです。この語り手が本当に見るのは、尾灯の残像ではなく、ナンバープレートの地名か、リアガラスに貼られた「子どもが乗っています」のステッカーのはずです。雰囲気が人物より先に立っている。
「一台あたりの接客は、だいたい三秒だと思う。」「相手がどちらの手で受け取るかが、窓が開く前にわかるようになっていたと思う。」「窓越しの一瞬は、思っていたよりずっと長かったのかもしれない。」
三秒で人の一日を読むと言い張る語り手が、自分の体で覚えたことまで「〜と思う」「〜かもしれない」で逃げている。三十年やった人間は、三秒が何秒かを「だいたい」では語らない。八秒並んだら長い、と体で知っている職業です。留保語尾は、若手の心理ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。職業の自負と文体が正反対を向いています。
「当時はまだ、ハイウェイカードという磁気のカードがあって、深夜割引のために時計を気にする客も多かったように思う。」
「客も多かったように思う」は概念であって観察ではない。三秒の現場にいた人間なら、深夜割引を気にする客の具体的な動作が出るはずです——零時数分前にブースの手前でわざと速度を落とす車、とか。ハイウェイカードも、名前を出すだけで、それを受け取る手つき(券売機ではなくブースに差し込む向き、磁気不良で弾かれたときの客の舌打ち)が一切ない。道具を名前で置いただけで、手で触れていない。
「三秒の接客が、ゼロ秒になっていく。便利になるというのは、こういうことなのだろうと、私は淡々と見ていた。」
「便利になるというのは、こういうことなのだろう」は、自動化を語るどんな職業エッセイにも貼れる汎用文です。しかも「淡々と見ていた」と書いた直後に、その淡々を解説で台無しにしている。淡々を主張するなら、見たものだけを書けばいい——ETCレーンを通る車は、収受員のほうを見ない、で十分です。機械に仕事を奪われた哀感を、紋切り型で代弁してしまっている。
「三秒だった。たぶん、ふつうの三秒と同じ三秒だったと思う。けれど、その三秒の中で、会話というものが成立していた。」
運転手の「あんたも夜中まで大変だな」が、すでに全部を運んでいます。その直後に「会話というものが成立していた」と抽象語で言い直すたびに、あの一言の値打ちが下がっていく。読者は会話が成立したことを、台詞だけで分かっています。主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。
「車が停まり、料金を受け取り、釣り銭とおつりのレシートを渡して、「ありがとうございました」を言う。」
細かいが、現金収受で毎回レシートを渡すという手つきは怪しい。領収書は求められたときに出すもので、全車に渡していたら三秒では終わらない。第一稿は後半でわざわざ「領収書という言葉を、料金を出すより先に口にする」サラリーマンを描いており、自分の設定と矛盾しています。職業エッセイは、職業の手つきで一つ嘘をつくと、観察の全部が嘘に見える。三秒の内訳は、実際の所作の順番どおりに、過不足なく書くべきです。
残すべきは三つ。「ありがとうございました」を言い切る前に車が走り出すこと、トレーの角度と高さで受け取る手を測る手つき、そして深夜二時の「あんたも夜中まで大変だな」。削るべきは、夜に溶けるテールランプ、「〜と思う」の留保語尾、ETC悲哀の汎用文、そして最終段の「私をいまの私にしてくれた」。改稿では、三秒の所作を実際の順番で過不足なく書き、ETCは「収受員のほうを見ない車」という動作一つで示し、結びは見送った最後の一台のしぐさで終えてください。意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。