ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)
マンション広告のコピーを一日眺めていると、言葉の「元の意味」がどれほど当てにならないか、しみじみわかる。「邸」「杜」「悠」。字義を辿れば厳密な意味があるのに、広告面ではそれらが薄く溶けて、ただ「高級そう」という気配だけを漂わせている。意味の希薄化は、語の死ではない。別の仕事への転職だ。
同じことが「お疲れ様です」にも起きている。
朝九時前のエレベーターで、まだ仕事を始めていない二人が「お疲れ様です」と交わす。互いの部署も名前も知らない。労働はまだ発生していない。ここで話し手は、相手の労苦をねぎらっているのではない。労いという元の意味は、広告の「邸」と同じく、気配として残っているだけだ。では何の仕事をしているのか。
所属の確認である。
この語が使われる場面を並べると輪郭がはっきりする。社内メールの冒頭、社内の廊下、社内の電話の第一声。社外にはほぼ出ない。出ようとすると摩擦が生じて、新人が「取引先にお疲れ様ですと書いてよいか」と悩む。社外には「いつもお世話になっております」という別語がある。つまり「お疲れ様です」は、名札の内側にいる者同士の符丁として機能している。同じビルに通っている、同じ会社のメーリングリストに入っている、同じ下請けラインに組み込まれている。そういう「内側」を、一瞬で可視化する。
日本語の既存の挨拶語は、この仕事に向いていなかった。「おはようございます」は時刻に縛られる。「こんにちは」は社内で使うと妙に他人行儀で、同僚より隣人に近い語感を持つ。「ご苦労様」は上から下への含みがある。誰から誰にでも、時刻を問わず、上下を問わず、しかし「内側」の者同士でしか使わない語。その空席に、労いの看板を下ろした「お疲れ様です」が滑り込んだ。
労いの意味は完全に消えたわけではない。薄い残響として、二つの役割を果たしている。一つは、相手を「疲れうる存在」として前提する丁寧さ。一つは、自分も疲れうる側にいるという立場表明。つまりこの挨拶は、交わした瞬間に「私たちはどちらも同じく疲れる種類の人間である」という契約書にサインしている。広告の「杜」が「この物件は自然に近い」という気配を一瞬で立ち上げるのと、構造がよく似ている。具体的な意味ではなく、関係の質を立ち上げる語。
広告コピーの世界では、こうした「気配だけ残った語」はしばしば、最初の意味に戻れなくなる。「プレミアム」はもう値段の話ではないし、「邸」はもう屋敷の話ではない。「お疲れ様です」も同じ道を進んでいる。帰宅時に一仕事終えた同僚にかける「お疲れ様でした」には、まだ労いの体温が残っている。しかし朝のエレベーターの「お疲れ様です」は、もう体温を失い、所属カードの提示音に近い。
言葉が挨拶に昇格するとは、元の意味を手放すことだ。手放した語ほど、広い場面で使える。この現象を劣化と呼ぶのは、広告コピーを「嘘」と呼ぶのと同じくらい、観察者としては怠慢だと感じている。