ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)
オフィスビルのエレベーターで、朝九時前に知らない人と乗り合わせる。ドアが閉まる直前、後ろから駆け込んできたスーツの男性が、先に乗っていた女性に向かって軽く会釈しながら「お疲れ様です」と言う。女性も「お疲れ様です」と返す。二人はおそらく同じ会社の別部署で、互いの名前も知らない。まだ何の労働もしていない。それでも、彼らは互いを労っている。
この現象を最初に奇妙だと感じたのは、海外のマンション広告を比較調査している最中だった。英語圏の広告コピーでは挨拶と労いが明確に分離している。「Good morning」は時間帯の確認であり、「You must be tired」は相手の状態への踏み込みで、親密さの度合いが違う。ところが日本のオフィスでは、この二つが一語に溶けている。出社直後の「お疲れ様です」、廊下ですれ違う時の「お疲れ様です」、メールの冒頭一行目の「お疲れ様です」。労働の前後も、親疎の距離も、ほぼ無視される。
本来「お疲れ様」は、作業を終えた者をねぎらう言葉だった。舞台裏や工事現場、稽古場で、一仕事終えた相手に向けてかけるもの。時系列としては「事後」の語である。ところが今、これは「事前」にも「最中」にも使われる。朝、まだコーヒーも淹れていない人に「お疲れ様です」と声をかける時、話し手はその人の過去の労働を労っているのではない。おそらく、労っているのは「存在していること」それ自体だ。
なぜこうなったのか。観察していて気づくのは、日本の職場に「中立的な挨拶」の空席があったことだ。「おはようございます」は時刻に縛られる。「こんにちは」は社内で使うと妙によそよそしい。「ご苦労様」は目上から目下への語感がある。残されたのは「お疲れ様」だった。時刻を問わず、上下関係をあまり問わず、社内の同じ空気を吸っている者同士であることを確認できる符丁。労いという意味の輪郭が薄まる代わりに、ポータビリティを獲得した。
この「意味の希薄化」は劣化ではない。むしろ、挨拶語として成熟した兆候だ。世界中の挨拶語は、元の意味を失うことで挨拶になっている。英語の「Goodbye」は「God be with you」の縮約で、相手の無事を神に祈る宗教的発話だったが、今は誰もそんな重さを込めていない。「お疲れ様です」も同じ道を歩いている。労いの中身が空洞化して、代わりに「私はあなたを同じ共同体の成員として認識しています」という所属確認のシグナルに変わった。
興味深いのは、この語が社外に漏れ出すときの摩擦だ。取引先への初回メールで「お疲れ様です」と書いてよいか、新人が悩む。社外には「いつもお世話になっております」という別の定型がある。つまり「お疲れ様です」は、労働共同体の内部マーカーとして機能している。同じ会社の名札を下げている、同じプロジェクトに関わっている、同じ下請け関係にある、そういう「内側」の確認語だ。労いという本来の意味は、この内側性を保証する残響として、かろうじて残っている。
エレベーターの二人に戻る。彼らは互いを労ったのではなく、同じ檻に入っていることを確認し合ったのだ。檻と呼ぶと物騒だが、共同体とはそもそもそういうものだ。疲れる前から疲れている、という前提を共有できる相手への、符丁。挨拶が労いの顔をしている国は、労いを挨拶にするほど、労働と存在が溶け合っているということでもある。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。