ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)
ソノダ動詞辞典では物件主体動詞を、マーク作成の間取り図では空間の沈黙を扱った。連作の三つ目に音楽歌詞を置く理由を、最初に一言だけ通しておく。マンションポエムは広告であり、売る。Piano Man は広告ではなく、売らない。対象は違う。しかし両者は、土曜の夜、仕事を終えた人間が何を欲しがるのか、という一点で重なっている。重なったうえで、逆向きに解く。マンションポエムは「もう疲れないで済む住まい」を提示することで寂しさに応答し、Piano Man は「疲れた人間が集まる場所」を歌うことで同じ寂しさに応答する。向きが逆なので、語彙の選び方、場面の出し方、名詞の立て方がすべて鏡像になっている。解剖すれば、マンションポエムが何を切り捨てたことで成立しているかが、むしろよく見える。切ったものの形は、切らなかった側の輪郭で測れる。
ビリー・ジョエルは一九七三年、二十一歳でこの歌詞を書いた。ロサンゼルスの「ジ・エグゼクティヴ・ルーム」というラウンジで半年間ピアノを弾いた実体験を素材に、五分三十七秒の曲に変換している。実体モデルの同定はマークが別原稿で詳しく扱う。私の担当は、そこから切り離した歌詞テキストの内部構造——時制、人物名詞、呼びかけ、語り手の位置、拍子と語り方の同期——に限定する。五つの部屋に分けて歩く。歩き終わったとき、a real estate novelist という二語の合成名詞が、マンションポエムの中心にある空白と、正確に対称であることが見えるはずだ。
解剖の順路を先に示す。第一の部屋はバーの描写——時刻と曜日が指定されている冒頭行の効果。第二の部屋は登場人物カタログ——五人の人物が固有名詞または役職名詞で呼ばれる手法と、a real estate novelist という造語の位置。第三の部屋は客の合唱——命令形で演者を呼び出す集合主体 we の構造。第四の部屋は語り手の距離——一人称 I が客でも演者でもない第三の位置にいる空席設計。第五の部屋はメロディの運動——3/4拍子のワルツと、場面・人物・歌唱の三段階で繰り返される語りの三拍子が、物理的な拍と意味的な拍でぴたりと重なる仕掛け。
各部屋では、その内部構造を記述したあと、必ずマンションポエム側の対応箇所に戻る。なぜそのマンションポエムはその手を使わないのか、使えば何が起きるのか。そこまで進めて初めて、Piano Man の五要素は「マンションポエムが捨てた五要素」と一対一に対応していることが見えてくる。最後の総括と結びで、その対応表を閉じる。
曲の冒頭は「土曜の夜、九時」という時刻と曜日の指定から始まる。この一行で Piano Man は、マンションポエムとのあいだに決定的な距離を取る。時刻を書くことは、場面を限定することだ。九時と書けば八時ではないと書いたことになり、土曜と書けば金曜でも日曜でもないと書いたことになる。限定された場面にしか入らない読者は、限定された読者だけだ。広告のコピーとして見るなら、これは致命的な設計だ。私が調べてきた二百件あまりのマンションポエムで、時刻を具体的に書いたものは一つもない。朝、夕、夜、という大きな時間帯の指示はあっても、九時や十時はない。曜日の指定もない。書けない。書けば限定され、限定された人しか振り向かないからだ。
ではマンションポエムは時間をどう扱うか。「いつまでも」「永く」「末永く」「変わらない」「変わりゆく時代のなかで」——時間を書くのではなく、時間の長さと超越を書く。時計の時刻ではなく、暦より上の尺度。これはマンションが長期ローンと耐用年数という時間単位で売られる商品だからだ。二十五年後にも価値が残る、三十五年後にも愛着が持てる。そう読ませるためには、九時や土曜のような刻みは邪魔になる。刻むと、時間は消費される時間になってしまう。
Piano Man が時刻を書くのは、歌が消費される時間を扱う芸だからだ。土曜の九時のバーという場面は、一週間のなかで唯一開く種類の場面であり、その場面の一回性こそが歌の核になっている。同じ九時でも、火曜の九時ではこの歌は成立しない。金曜でも、日曜でもない。土曜の九時だから、週明けに戻らねばならない人間が、戻る前の数時間を確保するために集まっている。この場面限定が、次に出てくる五人の登場人物の切迫を支える基礎構造になる。土曜の九時という時刻指定は、単なる冒頭の雰囲気作りではなく、曲全体の意味の土台に据えられた礎石だ。
もう一つ、冒頭には「常連客が流れ込んでくる」という描写と、「隣の老人がジントニックを飲んでいる」という細部が続く。普通の客、いつもの客、名前のない客。この匿名の群れを先に配置してから、群れの中の個別に名前のある客へ焦点を絞っていく。広い→狭い、の順序。マンションポエムは逆で、まず一人の完璧な入居者像——書かれないが行間に立ち上がる理想の住人——を匂わせ、そこから周辺の生活空間へ広げる。狭い→広い、の順序だ。Piano Man は入口を広くして個を掘る。マンションポエムは入口を狭くして生活を外側へ押し広げる。カメラの動かし方が反対になっている。
第二ヴァースに五人が登場する。ジョン(バーテンダー)、ポール(不動産小説家)、デイヴィー(海軍在籍中)、そして名前のないウェイトレス、名前のない商売人たち。五人のうち三人が固有名詞を持ち、二人が役職名詞で呼ばれる。この比率が重要だ。全員が固有名詞なら個別化が過剰になり、全員が役職名詞なら記号化が過剰になる。三対二で固有名詞側に偏らせることで、「名前で呼ばれる人間」と「役職で呼ばれる人間」の混在する空間、つまり現実のバーの人口構成を再現している。
マンションポエムは固有名詞を徹底的に消す。買い手は「あなた」であり、設計者は「建築家」であり、街は「都心」「邸宅街」であり、隣人は存在しない。固有名詞は一種類だけ使われる——物件名そのものだ。「ザ・◯◯タワー」「◯◯レジデンス」。物件だけが名前を持ち、人間は全員代名詞か属性名詞に還元される。これはマンションが、特定の誰かのためではなく、特定の誰かになれる空間として売られる商品だからだ。名前を書くと、その名前の人以外は排除される。だから書けない。
Piano Man は逆に、人間の固有名詞を書くことで物件側——バーや店の名前——を匿名に落とす。バーの名前は歌詞の中に出てこない。出さないことで、聴き手の記憶の中にあるどのバーにも重ねられる。物件の匿名と人間の固有名。マンションポエムの人間の匿名と物件の固有名。完全な鏡像構造だ。
五人のうち二人目、ポールの肩書きが最も凝っている。a real estate novelist。不動産業者でありながら小説家である、という合成名詞。ジョエルはこの二語を並べて、存在しない職業カテゴリを造語した。英語圏の職業名詞の通常のルールでは、二つの職業を並べる場合ハイフンでつなぐ(lawyer-turned-politician のような構造)か、別個の文で「彼は昼は◯◯で、夜は△△だ」と書く。ジョエルは接続詞もハイフンも入れずに、real estate を novelist の前に置いた。結果として、real estate は novelist の修飾語として機能する。つまり「不動産系の小説家」「不動産を主題とする小説家」という、職業の属性修飾として読める構造を作り出している。
フィッツジェラルドの『ザ・グレート・ギャツビー』は不動産成金の屋敷の話だ。チーヴァーの郊外小説群は、ロング・アイランドの住宅地で酒を飲み続ける中年男たちの話だ。カーヴァーの短編は、家賃の滞納と離婚と酒の話だ。二十世紀アメリカ文学の中軸の一つは、住宅・不動産・酒場・失意の男、という主題群で書かれてきた。ポールはその系譜の末尾に置かれる。ただし、書けないまま終わる末尾として。歌詞では、彼は小説を書こうとして書けず、バーに通って酒を飲んでいる。不動産の仕事はおそらく生活のための表の職業で、小説家というのは夜のあいだだけ名乗る未完の肩書きだ。a real estate novelist という二語は、昼の職業と夜の夢を一語に畳んで、どちらもが未完であることを示している。
マンションポエムが売る「不動産」と、ポールが書けない「不動産小説」は、言葉のうえでは同じ real estate だ。しかし、マンションポエムの real estate は完成された物件であり、ポールの real estate は書きかけの素材だ。完成と未完成。売れるものと売れないもの。マンションポエムが切り捨てたのは、この「未完のまま生活を続ける不動産の当事者」の像だ。買い手を完成した生活の入居者として描くマンションポエムには、ポールのような、不動産業界の中にいながら別のものを書こうとして書けない人物は入ってこられない。a real estate novelist がマンションポエムの広告コピーに紛れ込むことは、構造上ありえない。
三人目のデイヴィーは海軍在籍中。現役の兵士がバーに来ているという場面は、一九七〇年代のアメリカなら、ヴェトナム戦争終結前後の若者像を連想させる最も一般的な配置だった。ジョエル自身は兵役についていないが、同世代の男たちの多くが経験していた時間の配分——軍の時間と民間の時間のずれ——が、バーの一角に匿名に近い固有名詞で配置される。デイヴィーはジョンとポールより情報量が少ない。名前と所属だけで、何を飲んでいるか、何を話しているかは書かれない。この情報の薄さが、聴き手に余白を残す。マンションポエムなら絶対にしない処理だ。マンションポエムで情報を薄くすると、物件の魅力が伝わらなくなる。Piano Man は情報を薄くすることで、聴き手が自分の知っているデイヴィー像を書き込める余白を作る。
サビにあたる部分は、客が演者に歌ってくれと呼びかける形で書かれている。命令形で、主語は省略されるか「you」になり、目的語に「歌」が入る。客が演者を動詞の対象にする構造だ。これは通常の商業音楽では逆転させられる。歌手が聴き手に呼びかける、愛してくれ、覚えていてくれ、去らないでくれ。歌手が能動で、聴き手が受動。Piano Man は反転する。聴き手(バーの客)が能動で、歌手(ピアノマン)が受動の位置に置かれる。
そのうえで、呼びかけの主体は「we」という集合代名詞だ。一人の客が一人の演者に頼むのではなく、店の全員が一人の演者に頼む。メロディの気分にみんな乗っている、だから歌ってくれ。この we の集合性が、Piano Man の寂しさを一つの部屋のなかで共有される寂しさに変える。個別の寂しさが、集団の依存に組み直される瞬間。バーテンダーは飲み物を作ってくれ、演者は歌を作ってくれ、我々(we)はそれに乗る。役割分担の明示された依存関係だ。
マンションポエムは依存を書かない。買い手は独立した個人であり、物件は買い手を「迎える」が、買い手が物件に「お願いする」ことは書かれない。ソノダ動詞辞典で整理した物件主体動詞群——「迎える」「包む」「育む」「見守る」——は、物件から買い手への一方向の動詞で構成されていた。逆方向の動詞、つまり買い手から物件への「頼む」「すがる」「依存する」は、マンションポエムの語彙にはない。マンションは依存されるものではなく、提供するもの、として描かれる。商品が依存されると、商品性が損なわれるからだ。
Piano Man は依存を美しい形で書く。歌ってくれ、気分を変えてくれ、今夜を乗り切る助けになってくれ。客は演者に依存し、演者は客のチップに依存し、バーは両者の関係に依存する。この三層の依存が土曜の九時の空間を成立させている。歌詞は依存を恥じない。恥じずに書かれた依存は、聴き手にとって重荷にならない。マンションポエムが避けるのは、依存を書くと買い手がプライドを傷つけられるかもしれないという配慮だろう。広告は買い手の自立を持ち上げる。Piano Man は自立を解除して、集団の弱さの中に置く。
「we're all in the mood for a melody」という一行は、we と all と mood の三語で、空間の気分を一つに揃える。マンションポエムが類似の効果を狙うときは、通常「この街に住むすべての人が」といった形で書くが、主語が「all」ではなく「この街に住むすべての人」になることで、主語がまず空間から選別された集合になる。Piano Man の we は、土曜の九時にそのバーにいるという一点だけで集合化される。選別の基準が時空間の一致だけに絞られている。この基準の粗さが、we を大きくする。マンションポエムの we は常に小さい。選別が厳しいからだ。
Piano Man の一人称 I は誰か。文字通りにはピアノを弾いている演者本人だ。しかし歌詞の中で、この I はバーの客たちを観察し、彼らの身の上話を聞き、彼らの呼びかけに応えて歌う。つまり、客の中にも入らず、従業員としてバーテンダーやウェイトレスと完全に並ぶわけでもない、中間の位置にいる。客の話を聞く耳と、客に歌を返す声を持ちながら、どちらの集団にも帰属しない。第三の位置だ。
この第三の位置は、聴き手が自分を重ねるための空席として設計されている。演者が完全に中心にいて目立つと、聴き手は傍観者になってしまう。演者が客に混ざって消えると、歌そのものが成立しない。Piano Man の I は、曲を歌う主体でありながら、歌の中心人物ではない。中心にいるのはジョン、ポール、デイヴィー、ウェイトレスたちで、I はそれを見ている。見ている位置に聴き手を招き入れる。結果、聴き手は演者と一緒にバーを見ているような感覚になる。
ソノダ動詞辞典で論じた物件主体動詞の構造と比べると、ここは違いのほうが大きい。マンションポエムでは、語り手は明示されない。物件が主語になって動詞をふるうので、語り手は言葉の外に退却している。誰が書いているのか、誰の視線なのか、誰に向けて書かれているのか、すべて省略される。買い手は「あなた」と呼ばれるが、「私(広告主)があなたに語りかけている」という明示的な二項関係は書かれない。物件が自ら語り出すかのような、主体の拡散した構造。
Piano Man の I とマンションポエムの無主語文は、どちらも「中心を空ける」仕掛けだが、空け方が違う。Piano Man は I を立てたうえで、I を中心から外す。物件主語は主語そのものを物件に譲り渡して、人間の語り手を不在化する。前者は不在の形をとった在席で、後者は在席の形をとった不在だ。聴き手が入れる余白の質が違う。Piano Man の余白は、演者のピアノの横に立てる隙間として作られている。マンションポエムの余白は、物件の中に既に用意された入居者の空室として作られている。
共通点は一つある。どちらも「語り手の顔を消す」方向で書かれている。強い著者性、強い個性、強い意見、そういうものは両方の語りから抜かれている。Piano Man の演者は、客の話を語り直すが、客への評価を下さない。ポールが書けないことを書けないと書くだけで、書けないことが悪いとか良いとか言わない。マンションポエムも、買い手の選択を評価しない。あなたにふさわしい、と書くが、ふさわしくない人を除外する論理は書かない。語り手の判断の不在。両者はこの一点で並ぶ。
ただし、並んだあと分岐する。Piano Man の演者は、自分の疲労は隠さない。客の寂しさを見ながら、自分もここにいて同じ土曜の九時を生きている。この自己の疲労の承認が、マンションポエムにはない。マンションポエムの語り手(物件そのものであれ広告主であれ)は、疲労を承認しない。物件は疲れない、物件は買い手の疲労を受け止める容器として設計される。容器の側が疲れていたら、容器として使えないからだ。Piano Man はピアノマン自身の疲労を歌の中に残しておくことで、疲労を否定せずに扱う方法を作り上げる。
曲は 3/4 拍子のワルツだ。ワルツは一小節を三つの拍で刻む。強・弱・弱、強・弱・弱。拍子としては古い、十九世紀のヨーロッパ舞踏会から二十世紀のカントリーバラードに受け継がれた、身体が横に揺れる拍子だ。ジョエルがロサンゼルスのバーの話に 3/4 を選んだのは、偶然ではない。バーでゆっくり揺れている酔客の身体に、3/4 の強拍が合う。4/4 のロックだと前のめりになる。3/4 だと後ろに傾ける。
面白いのは、歌詞の語り方も三拍子で動いていることだ。各ヴァースは、場面(時刻・場所・雰囲気)、人物(誰が何をしている)、歌唱(その人物がどう呼びかけるか、あるいは何を言うか)、の三段階で構成される。場面・人物・歌唱、場面・人物・歌唱。曲の物理的な三拍子と、歌詞の意味の三拍子が重なる。聴き手は拍子のうえで揺れながら、意味のうえでも同じ周期で揺れる。二重の三拍子。
これはマンションポエムの散文リズムとは根本的に違う設計だ。マンションポエムは、句読点で区切られた体言止めの連続が多い。「都心、上質、永住。」のような。体言止めは静止を作る。動詞がないので、文が時間を進めない。読者は一つの体言の前で立ち止まり、次の体言でまた立ち止まる。歩く拍子ではなく、眺める拍子だ。マンションポエムを読むときの身体は、椅子に座って物件のパンフレットをめくる身体に合わせて設計されている。
Piano Man の三拍子は、座って聞く身体にも合うが、歩いて聞く身体にもっと合う。歩幅とワルツの一拍は近い長さを持つ。ヴァースを一つ歌いきる時間は、バーから駅まで歩く時間の断片として丁度よい。歌は身体の運動のなかに入ってくる設計で作られている。マンションポエムは身体を止めて読ませる。Piano Man は身体を動かしながら聴かせる。商品としての届き方が、媒体の違いだけでなく、文法の設計から違っている。
もう一つ、メロディには冒頭のハーモニカが入る。ハーモニカはバーの哀愁を示す定型の音色だが、ジョエルはイントロからハーモニカを前面に出すことで、歌詞が始まる前に「これはバーの歌だ」と宣言している。広告でいえば、最初の二秒で商品カテゴリを伝える役割だ。マンションポエムは文字媒体なので、ハーモニカのような音色の前奏を持てない。代わりに、写真のビジュアルや、書体の選択——明朝体の細い縦線、白地の余白、金色の箔押し——で同じ役割を果たす。どちらも、本体の言葉が始まる前に、受け手のモードを整える仕掛けを持っている。そこは共通だ。
五つの部屋を歩き終わったので、対応表を閉じる。Piano Man が広告として機能するなら売れるだろうに、売らずに済ませている要素が五つある。物件。匿名性。時間超越。威信の距離。無限定性。——バーの固有名詞を出さず、客の固有名詞を出すことで、物件を売る仕組みを放棄した。匿名の魅力を使わず、ジョン・ポール・デイヴィーと名前を立てることで、聴き手に誰でも重ねられる匿名の器を提供する戦略を捨てた。土曜の九時という時刻指定で、時間を超越する商品性を捨てた。演者が客と同じ疲労を共有することで、演者を客より高い位置に置く威信戦略を捨てた。ロサンゼルスのラウンジという具体的な場面設定で、どこでもない場所、どこにも通じる無限定性を捨てた。
マンションポエムが広告として成立するために、売らずに済ませている要素が五つある。場面の限定。登場人物の固有名。演者の疲労。合唱。時刻。——物件が建つのはどこでもよく、誰でも買えるという無限定性を維持するために、九時でも土曜でもない「永遠」を書く。ジョンでもポールでもない「あなた」を書く。疲れた広告主ではなく、疲れない物件を書く。一人の依存ではなく、独立した個人を書く。時刻ではなく「時を超えて」を書く。
対応を並べれば、Piano Man が捨てた五つとマンションポエムが捨てた五つは、符号が反転しているだけで項目は同じだ。場面限定/場面非限定、固有名/匿名、演者の疲労/物件の疲労不在、合唱/個人、時刻/時間超越。二つの言語は、同じ五つの軸のうえで、正反対の方向に語彙を選んでいる。土曜の夜の寂しさという同じ起点を扱いながら、片方は寂しさに寄り添う場面を歌い、片方は寂しさから逃がす住まいを売る。寄り添いと回避。応答の質が違う二つの戦略だ。
どちらが正しいか、という問いは立たない。二つは別の仕事をしている。歌は三分から五分で消費され、聴き手はまた来週のバーに戻る。マンションは三十五年で消費され、買い手はそのあいだ住み続ける。持続時間の違いが、語彙の選択を逆方向に押している。短い場面を美しく固定する必要のある歌は、限定を書く。長い持続を支える必要のある物件は、非限定を書く。どちらも嘘ではない。嘘ではないが、互いを写し鏡にすると、それぞれの省略の形がはっきり見える。
動詞辞典の結尾で、次は音韻と価格の相関を扱うと書いた。Piano Man を解剖したあとで、改めて音韻と価格の実験に向かう準備が整った。Piano Man は、マンションポエムが捨てた五つの要素——固有名詞化、時刻指定、演者の顔、依存の明示、場面限定——をすべて引き受けたまま成立した歌詞として、一種の対照実験になっている。マンションポエムがこれらを取り戻したら何が起きるか、の先行例がここにある。
五十年が経った。Piano Man は今も歌われ続けている。マンションポエムの多くは十年で消費され、物件が竣工して入居が終われば広告は役目を終え、言葉は忘れられる。物件は残っても、物件を売ったコピーは残らない。捨てたほうが売れやすく、捨てなかったほうが長く残る。この非対称は、商業文の寿命と芸術文の寿命を分ける古い原則そのもので、目新しさはない。ただ、目新しくない原則が、マンションポエム対 Piano Man という具体的な対比のなかで、五つの軸の一つずつについて検証できる形で現れたのは面白い。どの軸で捨てたから売れて、どの軸で捨てなかったから残ったのか、個別に対応がつく。
ワタナベさんは並行原稿で、昭和の半世紀の染みつき記憶としての Piano Man を書いている。FEN、深夜放送、喫茶店の有線、駅前のバー。アメリカからの輸入文化が日本の日常音に溶け込んだ経路。マークは実体モデルの側を書いている。ロサンゼルスの「ジ・エグゼクティヴ・ルーム」、ロング・アイランド、ポールのモデルとされる実在の人物、real estate novelist が造語として成立した英語圏の文学的背景。私は歌詞の内部構造を解剖した。三つの原稿で一曲に三方向から光を当てたことになる。二語の合成名詞 a real estate novelist が、私の側からは語彙論として、マークの側からは人物モデル論として、ワタナベさんの側からは輸入文化の記憶として、同時に照らされる。三人で一曲の別の扉を開けた、と書いて結びにしたい。
——三者並列・Piano Man 三部作:
ワタナベ:半世紀、同じ五分半を繰り返し聴く
マーク:I've been to the Executive Room
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