Piano Man、ある昭和の若者が聴いた夜
半世紀、同じ五分半を繰り返し聴くということ

ワタナベ(65歳・元会社員)

退職して四年目になる。ここのところ、サイトの書き手仲間から、同じ曲を別々に書くという話が立て続けに届いた。ソノダさんが Billy Joel の「Piano Man」の歌詞を一行ずつ解剖するらしい。マークはアメリカ側からの記憶で書くらしい。二人がそれぞれ別の角度から私に声をかけてきて、最後に、お前も書け、と言う。書けと言われて、机の前に座って、ペンではなくキーボードの上に指を置いて、ふと気づいた。私はこの曲を、半世紀近く聴き続けてきている。

毎年聴いているわけではない。週末のたびに針を落とすような習慣的な聴き方は、私にはできなかった。ただ、人生の節目で、呼ばれるように鳴ってきた。入社の夜、転勤の夜、娘の寝息の隣、残業帰りの喫茶店、退職の夜、そういう折々に、この五分半が私の耳に戻ってきた。戻ってきたというより、私のほうが、どこかで待っていたのだろう。

初めて聴いたのは、1977 年の秋の終わりか冬の入り口、大学一年のときだった。名古屋の大須商店街の裏手、レコード屋の地下にあった小さな喫茶店。友人に連れられて初めて入った店で、有線放送で流れていた。曲名も歌手も知らなかった。ハーモニカの一節で、肩の力が抜けた。それだけが、始まりのすべてだった。

半世紀というのは、ふだん実感できる時間の長さではない。しかし、この曲の最初の四小節を脳内で再生すると、その間に五十年近い重ね塗りがあることが、輪郭として分かる。以下、その重ね塗りを、一枚ずつ剝がすのではなく、積み上がってきた順に書き出してみる。

1977 年、大須の地下

大須の裏手の路地は、当時、今よりも薄暗かった。家電の店と古着の店と古本屋と射的の屋台が並んで、その間に小さなレコード屋が挟まっている。そのレコード屋の脇に、地下へ降りる細い階段があって、降りた先に四十平米あるかないかの喫茶店があった。店名は覚えていない。覚えていないというより、当時、店名を確かめる習慣が私になかった。

扉を開けると、煙草の煙が一枚の壁のようにこちらへ来る。天井は低く、オレンジ色の傘の照明が三つだけ下がっている。カウンターが五席、テーブル席が四つ。ビニールカバーのメニューが、水を弾いて光っていた。客の半分は学生、半分は素性の分からない年配の男たち。皆、一人で座って、皆、別々の方向を見ていた。

友人は、この店の常連らしい先輩に会う予定だったが、先輩は来なかった。私たちはコーヒーを頼んで、薄い金属のミルクピッチャーから少しだけ入れて、ゆっくり飲んだ。会話はあまりなかった。友人も、店の空気に合わせて、自然と声を落としていた。

有線放送で、いくつか洋楽が流れた。フォークらしい曲、カントリーらしい曲、ディスコの手前のような曲。どれも耳を素通りしていった。そのなかで、一曲だけ、耳が引き寄せられた。最初にハーモニカが鳴って、少し間を置いて、ピアノが追いかけた。そして、男の声が、歌うというより、語りかけるように始まった。

英語はほぼ分からない。分からないのに、語りかけられている、ということだけは伝わる。歌い手が、どこかの店の、どこかの夜の客たちに向かって、何かを言っている。その「どこか」に、私もいる気がした。気がしただけで、実際には名古屋の大須の地下にいるのだが、地下にいながら、別の地下にもいるような感覚があった。

曲が終わって、私は友人に聞いた。「これ、誰。」友人は首を振った。知らない、と言った。カウンターの奥に、店主らしい中年の男がいた。半袖のワイシャツの袖口が擦り切れていた。私は立ち上がって、カウンターに行って、今の曲の名前を聞いた。店主は、レシートの裏に、カタカナで書いてくれた。「ビリー・ジョエル」「ピアノマン」。私はそれを自分のメモに日本語の発音で書き写して、財布の札入れに折り畳んで入れた。その財布は、一年後、京都の銭湯で脱衣かごに入れたまま消えた。メモは、財布と一緒に消えた。メモが消えても、曲は消えなかった。

レコードの購入、と寮の夜

翌年の夏休み、土木関係のアルバイトを二週間して、日焼けした首の後ろと一万数千円の給料を持って帰った。そのうちの三千円ほどで、LP を買った。名古屋駅のヤマハレコードだったか、栄の中古レコード店の棚だったか、買った場所の記憶は曖昧である。アルバムの題は「Piano Man」。1973 年のリリース、私が買ったのは 1978 年の夏だから、五年前の音源ということになる。

ジャケットには、ビリー・ジョエルの横顔が写っていた。若い。おそらく二十四歳か二十五歳の顔。煙草を指に挟んでいる写真だったと思うが、これも記憶が揺れる。何度か見返して、確信のある像を書き出すことが、私にはもうできない。ただ、横顔のラインと、煙の流れ方の記憶は残っている。

大学の寮は、二人部屋だった。四人部屋が多い寮で、二人部屋は幸運な配属だった。ルームメイトは岐阜出身の工学部の男で、週末はよく帰省した。彼が帰省した金曜の夜、私は買ったばかりの LP を抱えて、寮の共同ラウンジではなく、自室に戻った。自室のポータブルレコードプレーヤーは、前の年にボーナスのおこぼれで叔父が買ってくれたものだった。

針を落とす前に、ジャケットを裏返して、曲目を確認した。A 面の一曲目が「Piano Man」。予想通りだった。予想通りだと知っていて、予想を確認する作業は、儀式のようだった。

針が盤に触れて、ぷつ、という小さな音がして、その次に、ハーモニカが鳴った。大須の地下の喫茶店の記憶が、そのまま耳の奥に戻ってきた。戻ってきた、という表現が正確である。戻ってくる前から、どこかにあった音が、再び、本来の導線を通って耳に届いたような感じ。

歌詞はやはり分からなかった。分からないのに、語りかけられている、ということは、一年前の地下より、少しだけはっきり伝わった。寮の壁は、喫茶店の壁より薄かった。薄い壁の向こうには、別の寮生の生活音があった。ドアの開閉、廊下の足音、電話の呼び出し、コンロの点火。それらの生活音の上に、この曲が、重ならずに共存していた。共存できる曲だ、と私はそのとき思った。

A 面を通して聴いて、盤をひっくり返して、B 面を聴いて、最後にまた A 面の一曲目に針を戻した。三度、同じ五分半を聴いた。三度目の途中で、窓の外がうっすら明るくなり始めていた。夏の夜は短い。短い夜を、この一曲で三度往復した。

歌詞の分からなさ、について

英語の歌詞は、二十代のあいだ、ほぼ分からないままだった。単語で拾えるのは「saturday」「piano」「real estate」「navy」くらい。断片を並べて、頭の中で場面を想像する。土曜の夜、ピアノ弾き、不動産にかかわる誰か、海軍にいた男。断片のあいだは、こちらで埋める。埋めた風景は、人によって違うはずだが、誰とも比べずに、私は私の風景を作った。

分からないまま、メロディだけで何かが通る、という聴き方を、私はこの曲で覚えた。この聴き方は、その後の洋楽人生の基礎になった。ディランもニール・ヤングもスティーリー・ダンも、歌詞を完全には追わず、断片と節回しと楽器の鳴りで受け取ってきた。分からないまま受け取ることは、怠惰ではない、と私は今も考えている。言葉の意味が全部分かっても、曲の半分しか受け取れない場合がある。言葉の意味が分からなくても、曲の全部が受け取れる場合がある。両者は独立している。

三十代に入って、洋楽の英和対訳の本が書店で何冊か並ぶようになった。ビリー・ジョエルの本も、複数の訳者が出していた。私は二冊買って、職場から帰る通勤電車の中で読み比べた。「a real estate novelist」——この一節の訳が、二冊でまったく違った。片方は「不動産小説家」という、直訳に近い語を当てて、その横に注を付けていた。もう片方は「不動産の夢を売る男」という、意訳に寄せた語を当てて、注は付けていなかった。どちらも、原文の正確さより、その人物の気分のようなものを取ろうとしていた。気分が合っていれば、訳としては通る、と当時の私は納得した。

歌詞の意味を、隅々まで日本語で確かめたのは、五十代になってからだった。インターネットで歌詞全文を引き出して、複数の和訳と、ジョエル自身のインタビューの翻訳と、ロサンゼルスのバーで実際に弾いていた一九七二年ごろの時期の記事を、順に読んだ。John という名の気のいいバーテン、Paul という不動産関係の小説家志望、Davy という海軍の男、ビジネスマンと老嬢のウェイトレス、それぞれの人物像が、輪郭を持って立ち上がった。立ち上がって、私の二十代の頃の想像の風景と、照らし合わされた。

驚いたのは、照らし合わせたあとの曲の響きが、分からなかった二十代の響きと、そんなに違わなかったということだ。違わなかったというのは、こちらの身体が変わっていないわけではない。身体は確実に変わった。背中が痛くなり、階段で息が上がるようになった。しかし、ハーモニカが鳴ったときに抜ける肩の力の量は、二十代の私と五十代の私で、ほぼ同じだった。この同じさを、私はまだうまく説明できない。説明できないまま、書いている。

1985 年、入社式の夜

昭和 60 年、四月一日。入社式は東京本社の大会議室で行われた。社長の訓示、人事部長の注意、総務の事務連絡。配属先が発表された。私は東京本社の企画部門だった。会議室を出て、新入社員寮に戻った。寮は墨田区の古い建物で、六畳に造り付けの机と押し入れが一つ、布団は自分で買う。

段ボールは前の週に送ってあった。荷物の山の中から、ラジカセと CD は引っ越しの最後にしまうつもりで、手前に置いてあった。CD はまだ買っていなかった。持ってきたのは、大学時代の LP を十数枚だけ。レコードプレーヤーは寮の共用ラウンジにしかなかった。共用ラウンジは、同期の新入社員が数人、入社式帰りの疲れた顔で、煙草を吸ったりビールの缶を開けたりしていた。

私は「Piano Man」の LP を抱えて、ラウンジの隅のプレーヤーの前に座った。同期の一人が、何をかけるのか、と聞いた。私は、古い曲です、とだけ答えた。彼らの会話は続いていた。会話の音量は、遠慮なしに大きかった。私は音量つまみを小さめにして、針を落とした。

ハーモニカが鳴った瞬間、ラウンジの空気が、一秒だけ変わった。変わったのは私の耳の中だけだったかもしれない。同期たちの会話は続いていた。しかし、私の側では、この先四十年、この会社で働くことになる、という前提が確定した夜に、この曲が鳴ったという事実が、輪郭として刻まれた。

当時の私は、サラリーマンの疲労というものを、まだ知らなかった。大学時代のアルバイトの疲労、受験勉強の疲労、そういうものは知っていたが、月曜から金曜まで同じビルに通い続けることの、累積する疲労は、未経験だった。未経験の私の前に、この曲は、疲労の手前の位置で鳴った。疲労を癒やす曲としてではなく、これから疲労する人間へ、先回りして何かを差し出す曲として、鳴った。

先回りされた私が、そのとき何を受け取ったのか、当時は分からなかった。分からないまま、最後までかけて、プレーヤーから盤を外して、ジャケットにしまって、部屋に戻った。布団を敷いて、電気を消して、天井を見上げた。天井は、大須の地下の天井でも、大学寮の天井でもなかった。別の天井だった。別の天井の下で、明日から、私の新しい持ち場が始まる、ということを、目を閉じて確認した。

転勤・結婚・子供

入社五年目、大阪への転勤辞令が出た。関西支社の新設部門への応援で、期間は未定だった。独身寮を出て、会社の借り上げアパートに一人で入居した。引っ越しの夜、段ボールの山の前で、私はラジカセではなく、新しく買った CD プレーヤーを、一番最初に取り出した。LP はもう東京の実家に預けてきたので、この時期から CD 中心になっていた。「Piano Man」は入社三年目に CD で買い直してあった。

新しい CD プレーヤーの電源を挿して、「Piano Man」のディスクをトレイに乗せて、再生ボタンを押した。アパートの白い壁は、まだ何も貼られていなくて、蛍光灯の光が四方に均等に散っていた。ハーモニカが鳴った瞬間、その白い壁が、一秒だけ、アメリカのバーの木の壁になったように見えた。見えた、というのは錯覚だと、もちろん分かっていた。錯覚だと分かっていて、錯覚を受け取る余地が、三十代の私には残っていた。

三十歳の夏、結婚した。妻は同じ会社の総務にいた女性で、私より三歳年下だった。披露宴の打ち合わせで、BGM の候補を出す段になり、私は遠慮がちに「Piano Man」を入れた。妻は候補の紙を一瞥して、この曲は暗すぎる、と言った。私は反論しなかった。妻の判断は的確だった。披露宴の冒頭に「寂しい土曜の夜のバーの客たち」を流すのは、どう考えても、新郎新婦の門出の音としては合わない。結局、別の曲が選ばれた。どの曲が選ばれたかは、披露宴のビデオを見返せば分かるが、ここでは思い出せない。

三十四歳、娘が生まれた。娘の乳児期、家事育児のほとんどを妻が担い、私は夜、会社から帰って、寝ている娘の顔を一分間だけ見る、という生活を続けた。娘が三歳のとき、週末に近所の公園に連れて行くのが、私の担当になった。五歳で、家族で琵琶湖方面にドライブした。車の CD チェンジャーに、数枚のアルバムを入れておいて、運転中に切り替える仕組みだった。その中に「Piano Man」のアルバムも入っていた。

高速道路に乗って一時間ほどして、娘は後部座席のチャイルドシートで眠った。妻は助手席でガイドブックを開いていた。ちょうど CD が「Piano Man」に切り替わった。ハーモニカが鳴った。その数秒後、娘が眠ったまま、むにゃむにゃと何か言った。聞き取れなかった。妻が小さく笑って、寝言でしょ、と言った。寝言の中身は、誰にも分からない。分からないまま、曲は続いた。娘は起きなかった。

部長になった年の暮れ、部の忘年会の二次会で、カラオケに流れた。私はカラオケが得意ではないので、隅の席でウーロン茶を飲んでいた。若い社員の一人が、いたずら半分で「Piano Man」を予約した。曲が流れ始めて、入れた本人が、マイクを持ったまま、歌えない、と笑った。サビ以外、歌詞を知らなかったらしい。私も、歌詞を英語で完全には歌えなかった。結局、皆でサビの一行だけを、ずれた発音で合唱した。合唱しているあいだ、全員が、仕事のことを、束の間、忘れていた。忘れた顔の集合が、その夜、私の記憶に残った。

残業帰りの喫茶店

四十代の半ば、数年にわたって、仕事が一番きつい時期があった。週に三回は終電帰り、土曜も半分は出勤していた。家に帰ると、妻と娘はすでに寝ていて、玄関の明かりだけがつけっぱなしになっていた。明かりをつけっぱなしにしておくのは妻の配慮で、真っ暗な玄関に入るのは、帰宅者にとっていいものではない、と妻は言っていた。

ただ、明るい玄関に着いても、そのまま寝室に行くと、頭の中で会議資料の続きが回り続けていて、横になっても数時間、目が冴えたままになることがあった。そういう夜の対策として、私は駅前の夜営業の喫茶店に、家に直行せずに寄る習慣を作った。コーヒーを一杯、三十分、ただ座るだけ。本も読まず、携帯電話も見ず、窓の外の人通りを眺めるか、店の床のタイルの目地を数えるか、その程度の三十分である。

その喫茶店には、深夜、似たような客が集まっていた。同じ会社ではない、別のスーツの中年男。タクシー運転手らしい、襟元に無線のマイクを挟んだ男。夜勤明けらしい看護師のような制服の女性。大学の卒論らしい紙を広げている学生。目的のよく分からない、七十代くらいの男性。皆、一人で、各々の席で、各々の時間を過ごしていた。会話はほぼ起きなかった。起きないことが、その店を成立させていた。

ある夜、店内の BGM に「Piano Man」が流れた。有線だったのか、店主の選曲だったのかは分からない。ハーモニカが鳴った瞬間、私は顔を上げた。顔を上げたのは私だけではなかった。カウンターの中年男も、窓際のタクシー運転手も、ほんの一秒、同じように顔を上げた。看護師らしい女性は、伏せていた目をわずかに動かした。学生だけは、卒論の紙に集中していた。

顔を上げた客たちは、互いに目を合わせなかった。目を合わせないまま、すぐに下を向いた。曲は続いた。曲が終わるまで、店の中は、元の沈黙に戻った。しかし、あの一秒の「顔の上げ方」が、私の中に記憶として残った。土曜の夜のロサンゼルスのバーに座っていた一九七二年の客たちと、二〇一〇年ごろの東京近郊の深夜喫茶に座っていた私たちが、五十年の時と一万キロの距離を越えて、同じ場にいる、と錯覚させる一秒だった。

ビリー・ジョエルは 1973 年、二十一歳か二十二歳の頃に、この歌詞を書いたと後に読んだ。二十一歳の彼と、四十代半ばの私は、別の国の別の時代に、明らかに違う身体で、しかしどこか似た場所に座っていた。座っていた場所の名前を、私はまだ付けられない。付けなくていい場所なのだと思う。

ハーモニカという楽器について

この曲の要は、ピアノでもボーカルでもなく、ハーモニカだ、と私は今でも考えている。曲の最初、間奏、そして終わり近く、ハーモニカが前に出てくる。ジョエル自身が吹いている。首に掛けるホルダーに固定して、ピアノを弾きながら、同時に息を通す。テレビ映像でその姿勢を見たとき、私は少しだけ驚いた。あの音は、一人の身体から出ている。

ハーモニカは、孤独な楽器である。アコースティックギターは合奏の中心になれるし、ピアノは伴奏を背負える。ハーモニカは、基本、独奏に近い。口に咥えて、吸って、吐いて、音を作る。息が切れたら、音が切れる。息の量と音の長さが、一対一で対応する。ごまかしが効かない。

土曜の夜のバーという風景に、ハーモニカを置いたジョエルの判断は、曲の骨格を決めている。ピアノが店全体の場面を支え、ボーカルが語り手の位置から場面を読み上げ、ハーモニカが、そこにいる個々の客の息遣いの代わりに鳴る。三つの層が同時に立ち上がって、バーの空気が一つの空間として固まる。ハーモニカを抜いてピアノとボーカルだけにしたら、風景は半分になる。半分になった風景は、もう、半世紀人の耳に残らない。

私自身は、ハーモニカを吹けない。中学の音楽の授業で、誰もが一度はやらされるあの楽器を、私は最後までまっすぐな音にできなかった。穴と穴の境目に口がずれて、二音同時に鳴らしてしまう。それでも、聴くほうの耳は、何十年かけて、少しずつ育ったようだ。育ったといっても、技術的に聴き分ける耳ではない。息の長さを、自分の呼吸と重ねて測る耳、という程度のものである。

この曲のハーモニカの一節は、息の区切り方が独特だ。最初の入りの息は長めで、間奏の息は短めで、終わり近くの息は再び長めに戻る。私がこの曲を繰り返し聴いてきた理由は、ハーモニカの息の長短に合わせて、こちらの呼吸が勝手に整うからだ、と今は言語化できる。呼吸が整うと、体の輪郭が戻る。残業帰り、転勤先の夜、娘の寝息の隣、退職の夜、いつも、この曲の一節で、私の呼吸はわずかに整った。わずかでいい。大きく整えられたら、それは別の曲の仕事である。

退職した日の夜

2022 年三月三十一日、私は定年退職した。最後の日、部署ごとの簡単な送別会が午後にあって、花束と、記念品の置き時計と、寄せ書きの色紙をもらった。色紙にはかなり多くの名前が並んでいた。中には、私がまだ部長になる前、平社員の頃に同じ島にいた、当時二十代で、今では他部署の課長になっている人の名前もあった。

会が終わって、私は自分の席を最後に片付けた。私物はほとんど前日までに運び出してあったので、机の上に残っていたのは、長年使っていた黒い革のブックカバーと、会社支給のボールペンと、退職の事務書類一式だった。ボールペンは返却の対象で、革のブックカバーは持ち帰り。書類一式は封筒に入れて鞄にしまった。

ビルを出た。雨が降っていた。細い、春先の冷たい雨だった。傘を差して、駅まで、いつもと同じ道を歩いた。いつもと同じ道を、今日が最後、という意識で歩くのは、どこか身体の位置がずれる感じだった。ずれた位置で、歩幅をいつも通りに保とうとする。保ち切れず、途中で一度、信号の変わり目で立ち止まって、ビルの窓の並びを見上げた。見上げても、何も分からなかった。分からないまま、信号を渡った。

駅の改札の前で、鞄から社員証を取り出した。もう有効ではない、翌日には回収される予定の社員証。表と裏を確認して、また鞄に戻した。改札を抜けた。

家に着いたのは夜の八時過ぎだった。妻が、私の好きなものばかりを並べた夕食を用意して待っていた。娘からは短いメッセージが届いていた。おつかれさま、ゆっくり休んで、の一行。食卓で、妻と二人、いつもより少しだけ長めに話した。会社の人たちの顔の話、寄せ書きの中の意外な名前の話、明日からの予定の話。予定の話は短かった。明日からの予定は、まだ、何もなかった。

風呂に入って、寝る前に、書斎に寄った。書斎の棚には、学生時代の LP と、社会人時代の CD が、年代別に並んでいる。レコードプレーヤーは、五年ほど前に新しいものに買い替えたが、針を落とすという動作は、四十四年前と同じだった。

棚の前に立って、私は、今夜どれをかけるか、決めていなかった。決めずに、指が自然に止まった盤を取り出した。取り出したのは、1978 年の夏に大学一年の私が買った、「Piano Man」の LP だった。ジャケットの角は擦れて、白く毛羽立っていた。

盤を取り出して、プレーヤーにセットして、針を落とした。ぷつ、という音が、四十四年前と同じ位置でした。そして、ハーモニカが鳴った。鳴った瞬間、1977 年の大須の地下と、1978 年の大学寮の窓の外の夏の明け方と、1985 年の墨田区の新入社員寮のラウンジと、1990 年の大阪の借り上げアパートの白い壁と、1997 年の家族ドライブの後部座席の寝言と、2010 年ごろの深夜喫茶の一秒の顔の上げ方が、ほぼ同時に鳴った。同時に鳴った、というのは比喩ではない。物理的には一つの音源しか鳴っていないが、聴いている私の側で、複数の年代の鳴りが、重なって聴こえた。五分半のあいだ、四十五年分の鳴りが、一つの五分半の上に畳まれていた。

鳴り終わって、針は次の曲に移った。私は針を上げなかった。A 面を通して、B 面までひっくり返して、アルバムを最後まで聴いた。聴き終わって、書斎のランプを消した。廊下に出ると、妻はもう寝ていた。翌朝から、退職後の一日目が始まった。始まった、と書いているが、始まった感じは、数週間、なかった。その数週間の空白を、後から埋めるように、ゆっくりと退職後の生活が形になっていった。

この曲が素晴らしい、ということの中身

「素晴らしい」という語を、この文章のどこかで使わないと、今回の依頼の目的を果たせない。使うのを、私はここまで避けてきた。避けてきた理由は、五十年近い記憶を書いた後に「素晴らしい」と書くと、その五十年が五文字に押し潰される気がしたからだ。押し潰されるのは、語を選ぶ側の腕の問題もある。しかし、もう一つ、この曲には、直接の賛辞を後から差し出すことで、かえって像がぼやけるという性質があるように感じる。

それでも書く。この曲は、素晴らしい。

素晴らしさの中身を、私の側で言語化してみる。五つに分けて、並べる。

一つ目。ハーモニカの息遣いが、聴く人の呼吸を整える。整え方が微量で、整えすぎない。整えすぎる曲は、聴き手の自前の呼吸を奪ってしまう。この曲は、奪わない。聴き手の呼吸に、こちらの呼吸を少し近づける、という距離感がある。

二つ目。語り手の位置が、店の客でもなく、舞台上の演者でもない。ピアノマンを呼ぶ客側の視点と、ピアノを弾いている側の視点の、両方を行き来しながら、どちらにも完全に帰属していない。この第三の位置が、聴く側の受け皿になる。私のように、大須の地下でも、大学寮でも、深夜喫茶でも、同じ曲を受け取ることができたのは、語り手の位置が一つに固定されていなかったからだ。

三つ目。歌詞に登場する人物たちが、名前で呼ばれている。John というバーテン、Paul という小説家志望、Davy という海軍帰り、ウェイトレス、老嬢。名前で呼ばれると、彼らは、バーの風景画の中の人影ではなく、具体の隣人になる。隣人になると、彼らの疲労が、聴き手の疲労と接続する。抽象の疲労は接続しない。名前のある疲労だけが接続する。

四つ目。サビは、演者への命令形である。しかし、命令の硬さではなく、客たちのしどけない甘えの形をしている。我々のために一曲歌ってくれ、あんたはピアノマンなのだから、という構文は、強制ではなく、依存の告白に近い。バーの客たちが、遠慮なく一人のピアノ弾きに依存している場面を、依存される側の声で歌うこの構造は、聴き手の側にも、依存していい夜がある、という余地を開く。

五つ目。五分三十七秒という長さ。三分のポップスでは、バーの一晩は収まらない。七分の大曲だと、一晩を超えて、朝まで引きずってしまう。土曜の夜の、一つの店の、閉店までの数時間を、聴き手の身体に一晩分の感覚として畳み込むのに、この尺は過不足がない。作曲時にジョエルがどこまで意識してこの長さにしたのかは分からない。分からないが、結果としての尺は、人間の疲労の一晩を受け止めるに足る長さになった。

五つの項目の共通項は、「人間の疲労を、人間の歌で受け止める」という構造である。バーの客も、ピアノマンも、聴いている私も、皆、疲労を抱えている。疲労を癒やすのではなく、疲労を認める。癒やそうとすると、聴き手は身構える。認めるだけの曲は、身構えさせない。認められた疲労は、同じ量のまま、軽くなる。軽くなった分だけ、翌朝、もう少しだけ歩ける。歩けた分が、翌日の労働になり、翌月の給与になり、翌年の家族の生活になる。そうして、半世紀が積み上がる。この曲の機能は、そこにある、と退職四年目の私は考えている。

来年、私は六十六になる。六十六のあと、何回この曲を聴くことができるか、数字の計算は、今日はしない。数字を出すと、曲の邪魔になる。邪魔にならない形で、数字を出さずに、ただ、棚の奥に、1978 年夏の LP と、1988 年頃に買い直した CD と、数年前に念のため取り込んだデジタルファイルが、静かに待っている。

五分三十七秒は、次に針を落とす日まで、棚の中と、ハードディスクの中で、鳴らずに待っている。鳴らないあいだのハーモニカを、私は時々、頭の中で再生する。再生すると、喉の奥の息の形が変わる。変わった息の形で、椅子から立ち上がると、一日がもう半歩、進む。半歩でいい。半歩ずつ、六十五歳の一日が、六十六歳の一日につながる。

大須の地下の、店名を覚えていない喫茶店の店主が、レシートの裏に書いてくれたカタカナの「ビリー・ジョエル」「ピアノマン」。あのレシートは、財布と一緒に京都の銭湯で消えた。消えたメモの代わりに、メモの指し示していた曲だけが、半世紀、私の手元に残った。紙のメモより、音のほうが長持ちする場合がある、ということを、私はこの一曲で教わった。

マークが、アメリカ側からの Piano Man を、彼自身の記憶で書いているらしい。ソノダさんは、歌詞の一行ずつを別の角度から解剖しているらしい。三人で一曲を、違う三つの角度から書く、ということを、私は今回、初めて経験する。書き上がった三本が並ぶ日、私は自分の文章を読み返す前に、まず二人の文章から読むつもりでいる。私の側の仕事は、ここで終わる。

——三者並列・Piano Man 三部作:
マーク:I've been to the Executive Room
ソノダマリ:a real estate novelist(歌詞解剖)
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