マーク(Y Lab ゲスト、ヨコヤマの旧友)
ヨコヤマから突然メールが来た。"Mark, we're doing a three-way write-up on Piano Man. Watanabe-san covers the Japanese side, half a century of memory. Sonoda-san dissects the lyrics. You cover the American side. Deadline: whenever, but soon." 相変わらず、頼み方が雑。名古屋時代、俺たちが六畳一間でルームシェアしていた頃と同じ調子。朝起きて「Mark, 今日、米炊いといて」くらいのノリで、Billy Joel の話を振ってくる。
最初、俺は少し迷った。Piano Man の話をしろ、と言われて、アメリカ人なら誰でも何か語れる。ラジオで流れ、スタジアムで合唱され、結婚式の三次会で泣きながら歌われる曲。しかし「素晴らしい」を語る、というのは、ちょっと違う筋の仕事だ。"This song is part of America's DNA" みたいな大きい話にすると、空回りする。大きい話は、当事者性を隠すための、便利な毛布。アメリカ人がそれをやり始めると、一番つまらない。
だから、今回は小さく書くことにした。俺自身が二十代の頃、偶然、Billy Joel の故郷を歩いた記憶から始めたい。ロングアイランドを車で通ったこと、そしてロサンゼルスで、あの Executive Room——Piano Man が実際に生まれたピアノバー——を見に行ったこと。大きい話はワタナベさんに任せる。あの人の昭和の身体から書ける記憶の方が、俺の抽象論よりずっと厚みがある。俺は、地理と、バーの内装と、二十ドル札の話を書く。アメリカ側の実体文脈、という役割なら、それが一番誠実だ。
ヨコヤマは "Your part should feel like a travelogue, not a lecture" と書いてよこした。了解。travelogue でやる。Piano Man が生まれた二つの土地——Long Island と LA——を、歩いた順番で書いていく。
Billy Joel は 1949 年 5 月 9 日、ニューヨーク・ブロンクスで生まれた。三歳の時、家族はブロンクスからロングアイランドのヒックスヴィル(Hicksville)という町に引っ越した。父親のハワード・ジョエルは、戦前にナチス・ドイツから逃げてきたユダヤ系の技術者で、ゼネラル・エレクトリック社でエンジニアとして働いていた。母親のロザリンドは、ユダヤ系アメリカ人。二人は Billy が八歳の時に離婚している。父親が息子にピアノを習わせ始めたのは四歳、本格的に続いたのは十二歳から。クラシック出身のピアニストなのだ、Billy Joel は。これ、意外と日本の読者に知られていない。彼は独学のロック野郎ではなく、ショパンとベートーヴェンを弾きこなす、訓練されたピアニストである。
ヒックスヴィルという町は、Long Island の南岸に近い郊外。マンハッタンから LIRR(Long Island Rail Road、通勤電車)で四十五分くらい、車なら渋滞次第で一時間半。俺の実家はニュージャージー州の北の方で、マンハッタンを挟んで反対側だから、ヒックスヴィルまでは車で一時間半くらい。Long Island Expressway を東に進んで、Exit 41 で降りる。目立つ町ではない。典型的なロングアイランドの郊外で、ストリップモール、高校のフットボール場、スプリット・レベルの戸建て、という風景が並ぶ。
Long Island は、ニューヨーク市民にとって二つの顔を持つ。一つは「夏に海に行く場所」——Hamptons(ハンプトンズ)やファイアー・アイランドのビーチ。もう一つは「マンハッタンから離れたけど、まだ NY 圏内の郊外」。通勤者が住み、中流家庭が子供を育てる場所。Billy Joel が育ったのは後者の方で、マンハッタンの都会性からも、Hamptons のリゾート性からも離れた、中途半端なアメリカの郊外だった。
この地理的な中途半端さが、彼の曲の温度を決めている。俺は断言する。「Piano Man」の後の「Movin' Out (Anthony's Song)」「Scenes from an Italian Restaurant」「The Stranger」「New York State of Mind」「Allentown」——これら全部に、Long Island の郊外の匂いがする。マンハッタンの尖った都会性ではなく、郊外の長い夜、高校のカフェテリア、イタリアン・レストランの常連席、酒場で会う旧友、不動産の売買、結婚の挫折、工場の閉鎖。こういう主題が、彼の歌詞の主軸である。
ロングアイランド出身の人は、マンハッタン市民から見ると、少しだけ「郊外」扱いされる。"Oh, you're from the Island" みたいな言い方をする。マンハッタンが中心、ブルックリンが隣、クイーンズがその次、Long Island は「ちょっと外」。ビリー・ジョエルは、この「ちょっと外」の視点で曲を書き続けた。Wait, they named this musical style WHAT? ——他のミュージシャンが「都会から憧れの都会を歌う」曲を書いていた時代に、彼は「都会の手前の郊外から、都会を見つめつつ、郊外の人間を歌う」という、一段ずれた位置を選んだ。
ワタナベさんが 1977 年に大須の地下で Piano Man を聴いた時、「語りかけられている」と感じたのは、この郊外の温度が曲に染み込んでいたからだ、と俺は推測する。マンハッタンの高層ビルから見下ろす都会ソングだったら、あの語りかけは起こらない。Long Island の安い居酒屋の隣の席から話しかけてくる温度、それが Piano Man の温度である。名古屋の労働者の、仕事帰りの肩の位置に、まっすぐ届く高さ。
「Piano Man」の歌詞は、完全に、ジョエル本人の実体験である。フィクションではない。これ、強調しておきたい。多くの名曲は、実体験を加工して、半分想像で作られている。Piano Man は違う。ほぼ全部、実在の場所、実在の人物、実在の夜。
話は 1971 年に遡る。この年、ジョエルは二十一歳で、Family Productions というレーベルから最初のソロアルバム「Cold Spring Harbor」をリリースした。しかし、マスタリングで事故が起きた。マスターテープが誤って高速回転の状態でプレスされて、音程が全体的に高くなり、ジョエルの声がリスのように歪んでリリースされてしまった。彼はインタビューで "I sounded like a chipmunk" と語っている。売れるはずがない。アルバムは失敗、ツアーも赤字、レーベルとの契約は搾取的で、ジョエルは法的に Family Productions に縛られた状態になった。逃げ場がない。
1972 年、二十二歳のジョエルは、前妻エリザベス・ウェーバー(彼女は当時、まだ別の男と結婚していたが別居中。この三角関係は複雑で、ここでは割愛する)と一緒に、ロングアイランドからロサンゼルスに逃げた。逃げた、という表現が正確だと思う。契約上の追跡を避けるため、本名の "Billy Joel" を隠して、"Bill Martin" という偽名を使った。Martin は、彼のミドルネームから取った。
LA での最初の数ヶ月、ジョエル夫妻はロサンゼルスの安いアパートで、ほぼ無職状態で過ごした。金がない。そこでジョエルは、Wilshire Boulevard 沿いの「The Executive Room」というピアノバーで、バイトとして雇われる。面接で店のオーナーに "Can you play?" と聞かれて "Yeah, I can play" と答えて、その場で採用された。週に 5 晩、夜 9 時から深夜 1 時頃まで、ピアノを弾く。ギャラは週 50 ドルくらいと、客からのチップ。1972 年の 50 ドルは、現在の価値でだいたい 370 ドル相当。ちょうど家賃と食費でぎりぎり。
Executive Room は、ハリウッドのスターが来る華やかなピアノバーではなかった。Wilshire の、Westwood に近い、地味なビルの一階。客層は、LA の中年男たち——元軍人、離婚したビジネスマン、不動産業者、保険外交員、引退寸前のスタジオ職員。彼らが、週末の夜、独りで、あるいは他の独り者と合流して、一杯やりに来る場所。映画の世界で一発当てようと LA に来たが、夢が擦り減ってきた人々の溜まり場。
ジョエルは、このバーで弾いている六ヶ月間、カウンターとテーブルを観察し続けた。客たちが何を飲み、何を話し、何を夢見て、何に諦めているか。そして、彼らの顔と声と台詞を、頭の中のノートにメモした。バイトの最終月、彼は曲を書き始めた。タイトルは自分のバイトの職種、Piano Man。サビは客が自分に向かって叫ぶ台詞、"Sing us a song, you're the piano man"。自分が弾いている場所で、自分が客に呼ばれる台詞を、自分が曲の中で自分に向かって歌わせる。この二重構造が、曲の仕掛けの核である。
曲は 1973 年、新しく契約した Columbia Records からリリースされ、アルバム「Piano Man」の表題曲となった。シングル版は全米 25 位。大ヒットというほどではないが、ジョエルの商業的キャリアのスタート地点になった。Family Productions との法的問題は、十年以上かかって解決した(最終的に、ジョエルは彼らに印税の一部を生涯支払い続ける、という契約を飲まされた)。Piano Man という曲は、その法的監獄から彼を救い出した、脱獄の道具でもあったわけだ。
俺は 1998 年、二十代半ばの夏、ロサンゼルスに出張で行った。当時、俺は日本の商社、大阪支店のマーケティング部門にいた。名古屋でヨコヤマとルームシェアしていた ALT 時代の後、俺は日本に残ると決めて商社に就職した。大阪で三年働いて、その夏、米国西海岸の一週間出張を任されていた。サンフランシスコ、LA、サンディエゴを回る、典型的な営業ツアー。
仕事の合間の土曜の夜、LA 在住の大学時代の友人 Jason に連絡した。彼はコーネル大学の音楽学部を出て、LA で音楽業界に入り、当時は小さなレコーディング・スタジオの技術者をやっていた。典型的な "I moved to LA to make it in music" の一人。ただ Jason は、ジョエル級のスターにはなれないが、職人としては確実に稼いでいた。現実的な夢の畳み方をした男。
ステーキを食べながら俺が Billy Joel の話を振ると、Jason の目が光った。"Mark, do you know where the Executive Room was? Want to go see it?" 俺は固まった。Executive Room、まだあるの? 1972 年の、あの Executive Room?
Jason の説明によると、Executive Room という名前の店は 1970 年代末に閉じたが、同じビルの同じフロアで、別のオーナーが別の名前で、同じ業態のピアノバーを続けていた。つまり、店は変わったが、物理的な空間は、1972 年のジョエルが弾いていたのと同じ空間。Wilshire Boulevard の、Westwood に近い一角。Jason は LA 在住の音楽オタクの間では有名な場所として、そこを知っていた。
タクシーで行った。ビルは、何の特徴もない、1960 年代風の低層オフィスビル。一階の角に、小さな入り口。看板は "Executive Room" ではなく、別の、もっと地味な名前だった。俺はいま、その名前を覚えていない。意地悪で覚えていないのではなくて、本当に覚えていない。書き留めなかった自分を、少し恨む。
入ってみた。内装は改装されていて、当時のジョエルが弾いていた空間とは、壁紙も床材も違う。しかし Jason が小声で教えてくれた。"Look. The bar counter is at the same spot. The piano is against the same wall. The restroom is where it was. These three points haven't moved since 1972." カウンターの位置、ピアノの位置(同じピアノではない、たぶん三代目か四代目)、トイレの位置。この三つが、1972 年の歌詞で書かれた空間と同じ配置。他の家具や壁紙が変わっていても、この三点座標で、あの夜たちが同じ部屋で起きていた、と確かに分かる。
俺たちは奥のテーブルに座って、ビールを一杯ずつ頼んだ。土曜の夜、客は十二人くらい。カップル三組、独り客五人、三人組のビジネスマンっぽい男たち。ピアニストは三十代後半の白人男性、髭、グレーのポロシャツ、ビール片手にピアノを弾いていた。
興味深かったのは、彼が Billy Joel の曲を一切弾かなかったこと。Jason に小声で聞いたら "There's an unwritten rule. If you're the piano man at this bar, you don't play Billy Joel. It's too on the nose." なるほど。ピアニスト間の不文律として、Executive Room の後継店で働くピアノマンは、Billy Joel を弾かない。代わりにこの男は、エルトン・ジョン、ボブ・ディラン、ランディ・ニューマン、そして自分のオリジナル曲を弾いていた。
ピアノの上には、ガラスの tip jar が置かれていた。Executive Room の時代から、この場所のピアノの上に、ずっと置かれ続けているであろう、チップ入れのガラス瓶。瓶の底には、一ドル札が四枚、五ドル札が二枚、そして一枚だけ、二十ドル札が折りたたまれて投げ込まれていた。"The microphone smells like a beer"——ジョエルが歌詞で書いた時代からマイクの衛生管理は多少進歩したが、チップの形式、瓶の位置、紙幣の折り方、この三つは 1972 年から変わっていない。
俺は瓶に五ドル札を入れて、ピアニストに "Anything by Elton is fine" と伝えた。彼は頷いて、Tiny Dancer を弾き始めた。客の何人かが、弱く、下手に、合唱し始めた。その瞬間、俺は一つ理解した。Piano Man の歌詞は、ドキュメンタリーだ、と。観察された事実を、韻と旋律に収めただけの、記録文学。だから五十年経っても、同じ瓶の中に同じ紙幣が入り、同じ合唱が起こる。
Piano Man の歌詞には、五人の登場人物が名前や呼び名で出てくる。ソノダさんが歌詞の構造を解剖すると聞いているので、俺はその手前、人物の実在モデルの話をやる。ジョエル自身が各インタビューで語った内容、および評伝(Fred Schruers の "Billy Joel: The Definitive Biography" など)を総合すると、次のようになる。
John the bartender。歌詞では「今の仕事じゃなければ、どこか別の場所に行けるはずなんだ」と話しかけてくる男。ジョエルに "The drinks are on me" とタバコとトニックをおごってくれる、気のいいバーテン。実在モデルは、Executive Room の当時のメインバーテンダーで、本名は記録が錯綜している(ジョエルは複数のインタビューで別の本名を口にしている)。ジョエルはこの男を歌詞上 "John" に統一した。John という名前は、アメリカ英語で最も普通の男性名で、"the average American guy" を象徴する。韻を踏むためではなく、匿名性のためにこの名が選ばれた。
Paul, the real estate novelist。不動産業で食いつなぎながら、いつか小説を書きたいと夢見ている男。歌詞では "never had time for a wife"——妻を持つ時間がなかった、と語られる。実在モデルは Executive Room の常連客で、夜の早い時間に来て、カウンターの端で一人で飲み、ジョエルに自分の小説プロットの相談を持ちかけた男。ジョエルはこの男と何度も話した。real estate novelist という語の発明については、次のカードで深掘りする。
Davy, who's still in the Navy。海軍に残っている男、"probably will be for life"。Davy は、海軍の水兵で、LA の軍事基地から週末だけ私服で街に出てくる若者、または中堅兵士たちの象徴。Executive Room には、サンディエゴやロングビーチの海軍基地から週末に来る男たちが、実際に常連としていた。1972 年はヴェトナム戦争の末期で、アメリカ軍は疲弊していた。除隊したくても制度上できない、あるいは除隊しても民間で食えないから残り続ける、そういう兵士たちが、Davy のモデル。単数形の Davy に、複数の兵士の人生が畳み込まれている。
The old man making love to his tonic and gin。歌詞の冒頭、第一番で出てくる老人。トニック・ジンを愛おしそうに飲んでいる。名前なし。モデルは Executive Room の最古参の常連で、ジョエルが働いていた半年間、ほぼ毎晩、同じ時間に来て、同じ席で、同じ酒を飲んでいた男。ジョエルは彼と一度も会話しなかった、とインタビューで語っている。会話しないまま、半年、毎晩観察した。そして "making love to" という言い回しを選んだ。英語でこの句は、何かを非常に愛おしく扱う、という意味で、酒との親密さと、老人の孤独を同時に指す。俺のアメリカ人の耳には、この表現がこの曲で最も切ない。tonic and gin(ジン・トニックではなく tonic and gin の語順)という倒置も、老人の言い直しの速度を模している。
ウェイトレス。"She's practicing politics"——政治的振る舞いの練習、つまり客とうまく話してチップをもらう社交術の訓練。年齢不詳。Executive Room の当時のウェイトレスは、ジョエル自身の記憶では二人いて、歌詞のキャラクターは両者の合成。"practicing" という進行形が、彼女のキャリアがまだ完成していない、まだ道の途中、ということを示す。そしてそのまま、彼女が女優志望で LA に来た、という行間が読める。LA のウェイトレスの 80% は女優志望だった、と当時言われていた。
ビジネスマンたち。"They're sharing a drink they call loneliness / But it's better than drinkin' alone"。複数形の男たち。特定の個人ではなく、バーの常連の「層」としての集合名詞。映画業界の中間管理職、不動産業者、保険会社のエージェント、広告代理店のセールスマン、そういう LA の中年男たちが、週末のバーで孤独を「分け合う」。分け合うという動詞が、孤独を単数ではなく複数の経験として扱う。これは曲の中で最も哲学的な一節だ、と俺は個人的に思っている。
この一語について、ソノダさんが歌詞構造の側から書くと聞いている。重複を避けつつ、俺は英語の語感の側から書く。real estate novelist は、英語として、存在する職業名詞ではない。これ、強調しておきたい。日本語訳では「不動産小説家」と訳されることが多いが、英語ネイティブの耳には、その訳の穏やかさは伝わらない。
英語で novelist は「小説家」を意味する、完全に独立した職業名詞。real estate は「不動産業」の形容詞句。この二つを直接繋げた "real estate novelist" は、意味論的に破綻している。不動産業者なのか、小説家なのか、どっちなんだ、という違和感を残したまま、ジョエルは歌詞に置いた。
英語圏の歌詞批評でよく言及されるのは、この句が「ハイフンなし」で書かれていることだ。正式な合成名詞にするなら "real-estate novelist" とハイフンを入れる。しかしジョエルは歌詞カードでハイフンを省略した。結果、聴く側は "real estate"(形容詞句)が "novelist" を修飾しているのか、それとも "real estate" と "novelist" が二つ別々の属性として並列されているのか、判断できないまま聴くことになる。意図的な曖昧さ。
アメリカ文学の歴史の中で、小説家は常に「もう一つの本業」を持って登場する。フィッツジェラルドは短編を雑誌(Saturday Evening Post など)に書いて印税を稼ぎつつ、長編を書いた。チーヴァーは New Yorker の短編作家として食いつつ、郊外小説を書いた。レイモンド・カーヴァーは製材工場や病院の清掃員として働きながら短編を書いた。スティーヴン・キングは高校の英語教師をしながら Carrie を書いた。アメリカの作家は、多くの場合、「本業で食いつなぎながら、夜、小説を書く」という形でキャリアを築いた。ヨーロッパの作家のように、貴族や資産家の援助で優雅に書く、という環境は、アメリカにはほとんどなかった。
Paul the real estate novelist は、その系譜の、最も下の階層に置かれている。フィッツジェラルドは出版された。チーヴァーも出版された。カーヴァーも出版された。しかし Paul は、たぶん、まだ出版されていない。書いているかどうかすら、定かではない。「いつか書きたい」と思っているだけかもしれない。書こうとしたが、最初の三章で止まっているかもしれない。書き上げたが、送った出版社から全部断られたかもしれない。歌詞は、そのどれかを明示しない。
ジョエルがこの一語に込めたのは、「夢を保有したまま、本業で年老いていく男の、哀しさと尊さ」の両方である。笑い話にもならない。成功物語にもならない。その中間で、Paul はカウンターに座って、ジン・トニックを飲みながら、若いバーテン(Bill Martin、偽名のジョエル)に、自分の書きかけの小説プロットを説明している。ジョエルはたぶん、そのプロットを、一文字も覚えていない。しかし Paul という男の姿は、五十年後の今も、曲の中で生きている。
ソノダさんがマンションポエム連作で書いていた、不動産広告が人物を匿名化する、という観察。Piano Man はそれの鏡像だ。不動産の世界にいる男に、名前を与え、夢を与え、夢の未完成を許している。匿名化ではなく、固有名詞化。この逆向きのベクトルが、Piano Man とマンション広告を根本的に分ける分岐点だと、俺は考えている。マンション広告は抽象的な「あなた」を作る。Piano Man は具体的な「Paul」を作る。前者は売買のため、後者は記憶のため。
アメリカのピアノバーの文化を、日本人読者のために少し説明しておきたい。これ、ヨコヤマに「マーク、日本の読者には居酒屋との違いを書いてくれ」と頼まれた部分。
ピアノバーは、1940〜70 年代のアメリカで最盛期を迎えたカルチャー。ホテルのラウンジ、レストラン、ボウリング場の奥、そして単独のピアノバーで、ピアニストが一人(時に二人でデュオ)、客のリクエストに応じながら夜中まで弾き続ける形態。客はカウンターや小さな丸テーブルに座り、グランドピアノの上には tip jar、チップ入れのガラス瓶が置かれている。
リクエストのやり方には、慣習がある。瓶に 1 ドル札を入れて口頭で曲名を言う、これが最も軽いリクエスト。5 ドル札を入れて紙に曲名を書いて渡す、これが通常のリクエスト。10 ドル札を入れて「この曲を」と指定し、ピアニストが客の名前を歌中に入れるかもしれない、これが少し豪華なリクエスト。そして 20 ドル札。20 ドル札は、当時のアメリカのピアノバー文化で「特別待遇の開始価格」とされていた。誕生日の妻のために曲を捧げる、プロポーズのタイミングで曲を弾いてもらう、そういう「一生に一度」の依頼の相場。
1972 年の 20 ドルは、現在価値で約 150 ドル。決して安くない。しかし「自分の人生の特別な夜」のためなら、中年男は出した。Piano Man の歌詞にも "The waitress is practicing politics" の後で、チップ経済が背景で動いていることがうっすら示されている。明示的には書かれていないが、アメリカ人の耳にはその経済が聞こえる。
カラオケが日本で発明され普及する前、アメリカ人は、ピアノバーで合唱することで、集団の歌の欲求を満たしていた。これが重要。カラオケ以前のアメリカに、庶民が歌う場所は、教会と、ピアノバーしかなかった。教会の聖歌隊は敬虔な歌、ピアノバーは世俗の歌。ピアノマンがサビを弾き始めると、カウンターの客たちが声を合わせる。英語で、酔って、下手に、でも真剣に。Piano Man の歌詞の "They're sharing a drink they call loneliness / But it's better than drinkin' alone" は、この合唱文化の核心を突いている。孤独を一人で飲むより、皆で分け合う方がまし、という感覚は、文字通り、皆でピアノを囲んで歌う、という物理的行為に裏打ちされていた。
1980 年代、カラオケが日本からアメリカに輸入された。西海岸の日系コミュニティを経由して、徐々にバー文化に浸透した。アメリカ人は最初「これは変だ。人前で自分が歌うなんて、恥ずかしすぎる」と抵抗した。ピアノバーでは、プロが弾く下で素人が歌うから、皆の声が混ざって恥ずかしくない。しかしカラオケは、一人でマイクを握って、素人の声が単独で聴こえる。アメリカ人の自意識にはハードルが高かった。
Wait, they put the amateur's voice WHERE? ——マイクがバーの中央で、プロのピアノ伴奏なしで、素人が一人で歌う、という形式は、アメリカ人には最初、ほぼ公開処刑に見えた。しかし 1990 年代までには普及した。そしてピアノバーは数を減らした。1970 年代の LA には、Wilshire 沿いだけで二十軒以上のピアノバーがあった、と Jason が教えてくれた。1998 年、俺が行った時点で、Wilshire 沿いに残っていたのは三軒か四軒。今(2026 年現在)、LA のピアノバーは片手で数えられる程度しかない。
Piano Man は、この文化の最盛期 1972 年に書かれた。そしてこの文化の衰退と共に、むしろ曲の価値が上がり続けた。最盛期の曲であると同時に、その墓碑銘でもある。これが、Piano Man を時代から浮かび上がらせて、クラシックにした力学だ、と俺は観ている。
Piano Man がリリースされた後、Billy Joel はこの曲を、ライブで何回演奏したか。正確な数は誰も知らないが、評伝著者の推定によれば、生涯で二万回を超えた。二万回。毎日三回弾いても二十年かかる計算。
彼のキャリア後半、特に 1990 年代以降、Piano Man はスタジアムコンサートの定番のクロージングナンバーになった。曲が始まった瞬間に数万人が立ち上がり、一番のサビが来る頃には、客席全体が合唱している。ジョエルはマイクを観客に向けて、数万の声を聴きながら、ピアノを弾くだけ、という状態になる。
マジソン・スクウェア・ガーデンでの独占公演——2014 年から 2024 年まで 10 年続いた "The Franchise" と呼ばれる月一公演——でも、最後は必ず Piano Man だった。俺は 2017 年に一回、友人に誘われて行った。Section 216、ステージから遠い席。それでも、最後の Piano Man の大合唱は、物理的な波として席に届いた。俺の隣の五十代の女性が、泣きながら全歌詞を歌っていた。彼女は俺に全く気を払わず、ただ歌っていた。その没入感が、この曲の機能を示している。
ジョエル自身は、長らく Piano Man を「自分の代表曲、しかし自分の中では特別ではない曲」というスタンスで語ってきた。複数のインタビューで "I don't love the song that much, but I'm grateful people sing it with me"。アーティストのアンビバレンス——自分のヒット曲の重荷、という問題。自分がもっと深いと思っている曲(The Stranger、Vienna、And So It Goes など)より、二十一歳で書いた軽めのバー・ソングが、世界で最も愛される。この逆転現象に対する、複雑な感情。
しかし、2010 年代後半から、彼の語り方が変わった。六十代後半になったジョエルは、公のインタビューでこう言うようになった。"This song means more to me now than when I wrote it. I was 21 when I wrote it. I'm 70 now. The song grew up with me." 二十一歳で書いた曲が、七十歳の自分に、新しい意味を返してくる。書いた時には見えなかった鏡像が、五十年後に初めて見える。
ワタナベさんが「ハーモニカが鳴った瞬間の肩の力の抜け方は、二十代の自分と五十代の自分で同じだった」と書くと聞いた。興味深い符合だ。ジョエル本人の中でも、書いた二十一歳と、弾いている七十歳で、曲の響きが違う場所に降りている。聴き手も、歌い手も、年を取るにつれて、曲の中の別の部屋に入る。
曲は、部屋を増やし続けている。二十一歳で書かれた時、部屋は一つだった——Executive Room の、カウンターとピアノの間の、狭い空間。二十五位の全米チャートに入った時、部屋は二つになった——バーの空間と、ラジオから流れる家の空間。八十年代のコンサートツアーで、部屋は十になった——各都市の各アリーナが、それぞれ臨時の Executive Room になった。五十年経って、部屋の数は数え切れなくなった。名古屋の大須の地下も、その部屋の一つだ。ソノダさんが歌詞を分析している机の上も、その部屋の一つ。この文章を書いている俺のブルックリンのアパートも、いまこの瞬間、その部屋の一つ。
ヨコヤマから「日本では Piano Man は老若男女問わず知られていて、スタジアムのお別れ演奏でも流れたりする」と教えてもらって、正直、俺は驚いた。アメリカで Piano Man は Billy Joel の代表曲として知られているが、「国民全員が歌える」レベルではない。若い世代は Spotify のアルゴリズム経由で発見する程度。日本の「全世代が知っている」状態とは違う。
なぜ日本でこれほど根付いたのか、アメリカ人の俺として、仮説を三つ挙げる。
仮説一、メロディとリズムの親和性。Piano Man は 3/4 拍子のワルツだ。ワルツは、日本人の耳にとって、童謡や唱歌と同じ拍感を持つ。『赤とんぼ』も『故郷』も 3/4 に近い情緒を持つ。日本人の身体は、3/4 拍子で感傷を処理する回路を、子供の頃から持っている。Piano Man は、この回路にストレートに入る。4/4 のロックンロールなら、こうはならない。
仮説二、ハーモニカの郷愁感の共有。ハーモニカという楽器は、日本の唱歌、フォークソング、そして演歌にも使われてきた。日本人の耳は「ハーモニカ=哀愁」という連想を、文化的刷り込みとして持っている。Piano Man のイントロのハーモニカは、この連想を即座に呼び起こす。Bob Dylan もハーモニカを使うが、彼の使い方は政治的である。ジョエルのハーモニカは、個人的な郷愁。日本人の耳は、後者に強く反応する。
仮説三、歌詞の情景の普遍性と、翻訳を必要としない具体性。土曜の夜、バーの常連たち、カウンターの一人客、という場面設定は、日本の居酒屋、スナック、深夜喫茶と、構造的にほぼ同じ。Executive Room を居酒屋に読み替えれば、John はマスター、Paul は本を書きたがっている不動産屋、Davy は自衛隊の男、ウェイトレスはママかホステス、ビジネスマンたちは二軒目の会社員、と、一対一の置換が可能。歌詞を日本語に翻訳しなくても、場面のレイアウトが分かる。
ワタナベさんが 1977 年、大須の地下の深夜喫茶で「顔を上げた一秒」のことを書くと聞いた。あの一秒は、ロサンゼルスの Executive Room で、1972 年、客が顔を上げた一秒と、構造的に同じである。疲れた中年男が、ピアノ(あるいはラジオから流れる Piano Man)のハーモニカで、ほんの一秒、自分の疲労を自分に認める。認められた疲労は、言語化はされないが、軽くなる。この生理的機能が、太平洋を越えて、同じ身体的反応を引き起こす。This is why the song works globally. 翻訳を必要としない部分で、曲が機能している。
アメリカで書かれ、日本で愛され、世界中のバーで合唱される Piano Man。その普遍性は、ジョエルが二十一歳の時、Executive Room の客たちを個別の固有名詞で呼んだからこそ、生まれたという逆説がある。抽象的な「バーの客」を歌っていたら、これほど遠くまで届かなかった。John、Paul、Davy——これらの固有名の具体性が、皮肉にも、最も普遍的な孤独の記録になった。
抽象は遠くに届かない。具体は遠くに届く。これが、アメリカの歌物語の、一つの鉄則である。フォークナーも、スタインベックも、レイモンド・カーヴァーも、皆、この鉄則に従った。ジョエルは、二十一歳でこの鉄則を本能的に理解していた。Paul を "a dreamer" と書かず、"a real estate novelist" と書いた。この選択が、この曲を不朽にした。
ヨコヤマが「三人で並列で Piano Man を書く」と企画した時、最初、俺はよく分からなかった。並列、って何を並列にするんだ、と。書いてみて、今、少し分かった。
ワタナベさんは、半世紀の日本側の記憶を書いている。1977 年の深夜喫茶、2025 年の現在、その間に流れた五十年。一人の労働者の身体で、この曲がどう聴こえ続けたか、という縦の時間軸の話。
ソノダさんは、歌詞の構造を解剖している。韻、時制、人称、修辞、a real estate novelist の語彙選択。言語分析の、横の構造軸の話。
俺は、アメリカ側の実体文脈を書いた。Long Island、Executive Room、$20 bill、1972 年の LA。曲が生まれた地理と時代、という地図の話。
三人の文章が並ぶと、この曲の別々の部屋を、別々の鍵で開けたことになる。ワタナベさんの鍵は、日本の昭和の労働者の身体、開く部屋は「繰り返し聴くことで生成される記憶」の部屋。ソノダさんの鍵は言語分析、開く部屋は「歌詞テキストの内部構造」の部屋。俺の鍵はアメリカ人の地理と文化史、開く部屋は「曲が生まれた物理的な場所と時代」の部屋。
鍵の種類が違うから、開く部屋も違う。しかしどの部屋も、同じ一つの曲の中にある。どれかが正しい、という話ではない。どれも、それぞれの鍵に対応した扉が、確かにこの曲に備わっている、ということを証明している。
部屋が多いことが、この曲を Piano Man たらしめている。部屋が一つしかない曲は、五十年持たない。五十年持つ曲は、何度でも新しい部屋を増やせる曲だ。Piano Man は、聴き手の数だけ部屋があって、入るたびに家具の配置が少し変わっている。名古屋の地下の喫茶店の部屋、ソノダさんの机の上の部屋、俺の 1998 年の Wilshire Boulevard の部屋、あなたがいま読んでいるこの文章の先にある、あなた自身の部屋。
それが、この曲が素晴らしい、ということの、もう一つの言い方である。素晴らしさを正面から語らず、部屋の数で測る。ヨコヤマ、こういう結び方で合ってるか? ——まあ、合っていようがいまいが、俺の部分はここで終わりだ。Sing us a song, you're the piano man。この一行の自己言及性については、ソノダさんが書くだろう。俺はバーを出て、Wilshire Boulevard の夜空の下、タクシーを探しに行く。1998 年のあの夜、Jason と俺がそうしたように。
——三者並列・Piano Man 三部作:
ワタナベ:半世紀、同じ五分半を繰り返し聴く
ソノダマリ:a real estate novelist(歌詞解剖)
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