楮の、皮剥ぎ
蒸したての皮を剥く、火傷と快感の数センチ

サガラトモヤ(49歳・紙漉き職人27年)

紙漉きは冬の仕事だと、前にも書いた。けれど冬は、漉き舟の前から始まるのではない。紙になる前の楮(こうぞ)を、刈って、蒸して、皮を剥ぐところから始まる。里山に雪がちらつき始めると、私はまず鎌を研ぐ。漉き舟に手を入れるより一月も前に、冬の仕事はもう動き出している。

楮は、一年で背丈の倍ほどに伸びる。葉が落ちきった十一月の終わりに、根もとから刈る。刈った枝を一尺ほどに切り揃え、大きな蒸し釜に立てて並べ、桶を伏せて二時間ほど蒸す。釜の蓋を取ると、湯気がいちどに立ち上がって、工房の天井が見えなくなる。煮えた楮の匂いは、青くさいような、甘いような、栗を蒸したような匂いで、毎年それを嗅ぐと、ああ今年も冬が来た、という気持ちになるのかもしれない。

蒸しあがった楮は、熱いうちに皮を剥かなければならない。冷めると皮が幹に貼りついて、剥けなくなる。だから釜から一本取り出し、軍手の上から布を巻いた手で、根もとに爪を立てて一気に下へ引く。するり、と音もなく、一本の皮が幹から離れていく。手のひらに残るのは、湯気を立てた一本の白い幹。あの、するりと剥ける瞬間の快感は、二十七年やっても飽きない。

ただし、熱い。蒸したての楮は、握れば火傷をする熱さだ。快感と火傷は、ほんの数センチの距離にある。布の巻きが甘ければ、指の腹に水ぶくれができる。毎冬、私の指には新しい火傷の跡が一つか二つ増える。けれど冷めるのを待てば皮は剥けない。熱いうちに、しかし火傷しないうちに——その狭い隙間を、手だけが覚えている。

剥いだばかりの皮は、外側が黒い。これを黒皮という。黒皮のままでは紙にならない。外側の黒い表皮を包丁で削ぎ落とし、中の白い層だけにする。これを「へぐり」という。台の上に皮を置き、刃を寝かせて、向こうへ向こうへと削いでいく。一本の皮から白皮になる部分は、ほんのわずかだ。黒皮を厚く削れば白皮が減り、薄く削れば黒が残る。根気のいる、終わりの見えない仕事だ。年寄りの手伝いが来る皮剥ぎの日でも、へぐりだけは誰にも任せられない。

へぐった白皮は、まだ白くない。生成りの、薄い茶を帯びた色だ。これを白くするのに、昔から二つの晒し方がある。川晒しと、雪晒し。川の流れに浸けて晒せば、水が灰汁を流して白くなる。雪の上に広げて晒せば、雪が解けて染み込み、日に当たって、また違う白さになる。雪晒しの白は、川晒しよりやわらかい、と祖父は言っていた。里山の冬の、いちばん美しい白だと。

白くなった白皮にも、まだ小さな塵が残っている。繊維のあいだに紛れた、ごく小さな黒い点。これを水を張った桶の中で、一つずつ指の先で取っていく。塵取りという。半日かがみこんで、何百という塵を取る。腰が固まり、目がかすむ。けれど、ここで取り残した一つの塵が、乾いた紙の上で黒い点になって浮く。光に透かせば、必ず分かる。紙の白さは、塵取りの根気なのだ。

楮の畑は、年々減っている。育てる農家が、もういない。だから何年か前から、私は工房の裏の畑で、自分の楮を育てるようになった。買った楮より、自分で刈った楮のほうが、蒸したときの匂いが濃いような気がする。皮剥ぎの日には、近所の年寄りが何人か手伝いに来る。昔は集落じゅうの冬仕事だったのだと、火を囲んでお茶を飲みながら、誰かが必ずその話をする。湯気の立つ工房に、楮の匂いと、年寄りの笑い声が満ちる。里山の冬の、原風景のような時間だ。

刈って、蒸して、剥いで、へぐって、晒して、塵を取る。漉き舟に楮が入るまでに、これだけの冬がある。けれど結局のところ、紙の白さは塵取りの根気なのだと思う。遠い工程を思うのではなく、目の前の塵を一つ取る。それが、職人なのだろう。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。