核は強い。「東海林」をショウジと読むかトウカイリンと読むか、どちらも正しい三文字の前で声が止まること。版元への問い合わせが戻るまで録音が止まること。録り直した一語をデイジー画面の波形の数センチに差し替えること。調べた読みが記録票になって次の音訳者に渡ること。この四点だけで一本立つ。問題は、書き手がその四点を信用せず、辞書と水の静物画で場面を立ち上げ、最終段で「本体」だの「私を音訳者にしてくれた」だのと全部を解説して回収してしまっていることだ。前作で「込めない声の観察者」を名乗ったこの語り手が、こんどは自分の仕事を抒情で塗っている。職業の手つきが見えるべき場所に、汎用の感慨が立っている。
「声に出す一瞬の裏の、机の上の数時間こそが、音訳という仕事の本体なのだと、いまの私は思っている。ルビのない字の前で止まっているあの時間が、私を音訳者にしてくれたのだ。」
主題を主題文として書いてしまっている。「〇〇こそが本体なのだ」は、どの職業エッセイの末尾にも貼れる判子で、サカキマホである必然がない。前作の辛口レビューで「私をいまの私にしてくれた」をすでに切ったのに、こんどは「私を音訳者にしてくれた」と同じ型を持ってきた。同じ書き手が同じ自己赦しを繰り返している。「東海林」の三文字が立っていれば、本体が調査であることは読者が勝手に気づく。気づかせるべきものを、先に言ってしまっている。
「窓の外は静かで、机の上にはアクセント辞典と水が一杯。」
窓、静けさ、辞書、水。前作のブース描写の焼き直しで、しかもこんどは観察ではなく書き割りになっている。十五年この机にいる人が冒頭で出すのは、静けさではなく、調べ物の山のはずだ。何冊もの辞典が開いたまま伏せてある、付箋の色で案件を分けている、版元の封筒が未開封で立てかけてある——そういう机の実物がない。「静かで」で雰囲気を安く調達した瞬間に、人物より先に空気が立つ。生成された“それっぽさ”の典型。
「確定させるために、私は机の上で長い時間を過ごすのだと思う。」「読みの調査は、図書館の中に静かに積もっていく資産なのだと思う。」
音訳者は読みを「確定」させる職業だ。確定とは断定である。決まるまで録らない、と本文でも書いている当人の地の文が「〜のだと思う」「〜なのだと思う」で締まるのは、怯えではなく、断言を避ける作者の保険に見える。自分が何時間そこで過ごしたかは、思うことではなく、知っていることのはずだ。前作の校正が主観の語尾を一つずつ降ろしていったように、この語尾も降ろされるべきだった。
「版元から著者へ、著者から版元へ、それから私のところへ。一文字の読みのために、何人もの手を経て、便箋が行き来する。」
「便箋が行き来する」は概念であって観察ではない。実際に問い合わせを十五年やった人間なら、具体が一つ出るはずだ——回答が定型の依頼書で来るのか手書きの一行なのか、図書館の担当者を必ず経由する建て付けなのか、戻りに何日かかったその一件の日数。手段(便箋なのかメールなのかFAXなのか)すら曖昧なまま「何人もの手を経て」で情緒に逃げている。さらに惜しいのは、記録票そのものの実物が書かれていないこと。「何ページの、どの語を、どう読むと決めたか。その根拠は何か」と項目を概念で列挙するだけで、票に実際に何と書いたかの一例がない。
「それでも割れたままなら、図書館を通じて、版元に問い合わせる。」
調査の順序が「人名辞典・地名辞典 → 割れたら版元」と二段で雑に畳まれている。前作では「NHKのアクセント辞典を引き、それでも載っていなければ版元に問い合わせる」と道具の手順が一段ずつ見えていた。今作は固有名詞の読みという、まさにこの語り手の十八番のはずの場面で、何をどの順で引くのか(人名辞典の版は、姓の異読をどう載せているのか、複数読みのときの判断基準は何か)が省かれている。職業の論理がいちばん効く場所で、運用が手抜きになっている。
「聴く人には、その数時間は聞こえない。聞こえないように仕上げるのが、たぶん私の仕事なのだろう。」
波形の数センチの裏に辞書と付箋と往復がある、という直前の一文がすでに全部言っている。それを「聞こえないように仕上げるのが私の仕事」と抽象語で言い直すたびに、数センチの波形の値打ちが下がる。しかも「たぶん」「のだろう」と保険までかけている。エッセイの主題を要約文として書いたら、それはもうエッセイではない。
「私はその三文字の前で、長いあいだ止まっている。」
「長いあいだ止まっている」は、棋士の回想にも、翻訳者の回想にも、そのまま置ける。止まっているあいだに何をしていたか——人名辞典のどの欄を指でたどったのか、ショウジとトウカイリンのどちらに一度傾いてから引き返したのか、声に出して両方を試してみたのか——を書かなければ、その数時間は本文の主張に反して、ただの空白のままだ。「いちばん時間を食う」と言い張る調査の中身が、肝心の一語の前で書かれていない。
残すべきは四つ。「東海林」をどちらに読むか割れたままの三文字、版元への問い合わせが戻るまで録音が止まる空白、録り直した一語をデイジーの波形に差し替える数センチ、そして記録票が次の音訳者へ渡る瞬間。削るべきは、窓と静けさと水の書き割り、「〜のだと思う」の留保語尾、最終段の「本体なのだ/私を音訳者にしてくれた」の主題解説。改稿では、記録票に実際に書いた一行(「東海林=ショウジ。版元〇〇社確認。〇月〇日」のような)を見せ、「長いあいだ止まっている」を、辞書の欄を指でたどる動作と、両方の読みを小声で試す動作に置き換えること。意味は動作が運ぶ。感慨が運ぶのではない。