ルビの、ない字
声に出す一瞬の裏で、机の上に積もる数時間

サカキマホ(38歳・点字図書館の音訳者15年)

本を声にする仕事を、十五年続けている。窓の外は静かで、机の上にはアクセント辞典と水が一杯。録音ブースに入る前に、私はいつも一冊の本と向き合う。けれど、向き合うのは本文ではない。文字の、読み方のほうだ。声に出してしまえば一瞬で過ぎていくその読みを、確定させるために、私は机の上で長い時間を過ごすのだと思う。

音訳でいちばん時間を食うのは、録音ではない。調査である。本にルビがなければ、その字をどう読むのかを、調べて、確定させてから、はじめてマイクの前に座る。墨字の読者なら、読めなくても読み飛ばして先へ進める。けれど声は飛ばせない。声は、必ず一つの読みを選んでしまう。選ばないという選択肢が、私たちにはない。

難物は「読めない字」ではない。「読み方が複数ある字」だ。たとえば「東海林」という姓。ショウジと読む人がいて、トウカイリンと読む人がいる。本文のどこを探しても、ルビはない。前後の文脈にも手がかりはない。私はその三文字の前で、長いあいだ止まっている。読めないのなら辞書を引けばいい。けれど、どちらも正しい字の前では、辞書は二つの答えを並べて差し出すだけだ。

地名も同じだ。同じ漢字でも、土地が違えば読みが違う。人名辞典と地名辞典を机に並べて、私は一つずつ当たっていく。それでも割れたままなら、図書館を通じて、版元に問い合わせる。「本書〇ページの人名の読みをご教示ください」。返事が来るまで、その本の録音は止まる。一週間、二週間。机の上の付箋だけが増えていく。

問い合わせの往復は、思いのほか長い。版元から著者へ、著者から版元へ、それから私のところへ。一文字の読みのために、何人もの手を経て、便箋が行き来する。けれど、それを面倒だと思ったことはあまりない。一つの読みが確定して戻ってくると、その三文字が、はじめて声に出せる字になる。確定するまでは、私にとってその字は、まだ読めない字なのだ。

調べた読みは、記録票に書きつけて、図書館に残す。何ページの、どの語を、どう読むと決めたか。その根拠は何か。版元に問い合わせたなら、その回答も添える。この記録は、私一人のためのものではない。次に同じ本を、あるいは同じ著者の別の本を音訳する人が、私の調べた数時間を、そのまま受け取れる。読みの調査は、図書館の中に静かに積もっていく資産なのだと思う。

それでも、読みが後から判明することがある。録音を終えたあとで、校正者からの指摘票が回ってくる。「〇ページの地名、現地の読みは△△では」。指摘が正しければ、私はもう一度ブースに入って、その箇所を録り直す。一文字のために、もう一度エアコンを切り、椅子の軋みを確かめ、息を整える。声に出すのは一瞬でも、その一瞬を正しくするまでに、私は何度も机に戻る。

デイジー編集ソフトの画面の上で、録り直した一語を、元の音声に差し替える。波形の、ほんの数センチ。その数センチの裏に、辞書と、付箋と、版元との往復と、指摘票がある。聴く人には、その数時間は聞こえない。聞こえないように仕上げるのが、たぶん私の仕事なのだろう。

一冊の本の音訳に、数か月かかることがある。録音そのものは、そのうちのわずかな時間にすぎない。残りの大半は、読みを調べ、確定させ、記録に残す時間だ。声に出す一瞬の裏の、机の上の数時間こそが、音訳という仕事の本体なのだと、いまの私は思っている。ルビのない字の前で止まっているあの時間が、私を音訳者にしてくれたのだ。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。