核は強い。無償給与の裏に受領簿への押印があるという発見、前年度の余りを渡さず予備の新品を確保しておく配慮、そして名前が書かれた瞬間に「物品」が「持ち物」に変わるという一点。この三つだけで一本立つ。問題は、検品の人――一冊ずつ数えて落丁を探す、断定で生きる職業の人を語り手にしておきながら、書き手がその核を信用せず、四月の希望や新品の匂いといった既製の叙情で前後を膨らませ、最終段で「私の春なのだ」と全部を解説して回収してしまっていることだ。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。数える人が「数を信じろとばかりに」などと言ってはいけない。
「子どもに会わない私にとって、あの教科書の束こそが、私の春なのだ。」
主題を主題文として書いて、自分で判子を押して終わっています。「◯◯こそが、私の春なのだ」は、どの職業エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ササモリチエである必然がない。前の作(机と椅子)でも指摘されたはずの「私をいまの私にしてくれた」型の自己赦しが、看板を替えてまた出てきている。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めている。名前の書かれた教科書という強い具体を見たあとで、なぜ抽象語に逃げるのか。
「新しい年度の希望が、その大きな段ボールの山に詰まっているのだと思うと、私は毎年、少しだけ胸が高鳴る。」
新学期=希望、という最も安い既製品を冒頭でつかんでいます。段ボールに希望は詰まっていない。詰まっているのは教科書で、それは重さと冊数と落丁の可能性を持った物だ。この人が本当に二十六年あの廊下に立ったなら、出てくるのは「希望」ではなく、どの社の箱がいつも潰れて届くか、検品にかかる時間、腰の高さに積むときの順番のはずです。胸の高鳴りは人物ではなく、生成された“それっぽさ”が立てている。
「たぶん学校の中で私だけなのかもしれない。」「いつも時間との競争だったように思う。」「言い過ぎだろうか。」
検品の人は断定で生きている。三十二か、三十一か。落丁か、落丁でないか。一冊ずつ数えて白黒をつけるのが仕事の人です。その語り手の回想が「かもしれない」「ように思う」「だろうか」で薄められているのは、怯えではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「学校の中で私だけ」かどうかは、想像でなく事実として知っているはずで、「なのかもしれない」は弱い。新品の匂いを嗅ぐのは自分だけだ、と言い切れる人物像をわざわざ作っておいて、語尾でそれを取り消している。
「出版社ごとに梱包の癖が違う。ある社はきっちり十冊ずつビニールで括ってくるし、別の社は数を信じろとばかりに無造作に詰めてくる。」
梱包の差という着眼はいい。だが「ある社」「別の社」と概念のままで、観察になっていない。実際に毎年箱を開けてきた人間なら、社名は出さずとも、たとえば「帯が緑の社は天地が逆さに詰まっている」「重い算数だけ別便で遅れて来る」といった、その人だけが知っている一つの癖が出るはずです。「数を信じろとばかりに」は擬人化の比喩で、数える本人の感想として軽い。検品の人なら、信じずに必ず数える。比喩を書いた瞬間に、職業の手つきが嘘になっている。
「その棚を見るたび、私は誰のものでもない教科書たちが、来るはずの子をいたいけに待っているような気がしてしまう。」
予備の棚は、この作のいちばん良い核(前年度の余りを渡さない配慮)の現場なのに、「いたいけに待っている」という擬人化で台無しにしている。教科書は待たない。待つのは、来るかどうかも分からない転入生のために棚を一つ空けておく、という事務の判断のほうです。感傷を本に背負わせず、配慮を動作で書けばいい。「春に三冊、夏に二冊、と毎年ほぼ同じ数だけ転入生が来るから、その数だけ新品を残す」と書けば、二十六年ぶんの経験が一行で立つ。物に気持ちを持たせるのは、いちばん安い叙情です。
「物品台帳の数字が、ひとりの子の『持ち物』に変わっている。名前が書かれた瞬間に、教科書は学校の備品であることをやめて、その子のものになるのだ。」
この作の主題そのもの。一文目の「いちねん やまだ はなこ」という具体が、すでに全部を言っている。なのに続けて二度、同じことを抽象語で言い直している。「物品から持ち物に変わる」「備品であることをやめて、その子のものになる」――言い直すたびに、鉛筆書きの名前の値打ちが下がっていく。主題を主題として書いたら、それはエッセイではなく要約です。名前を見せたら、黙って次へ行けばいい。
「配送のトラックが帰ったあと、廊下に積み上がった箱の前で、私はしばらく立ち尽くしてしまうのだ。」
この一文は、引っ越し業者にも、図書館員にも、倉庫番にもそのまま置ける。立ち尽くして何を見たか、何を数え始めたかを書かなければ、人物はそこにいないのと同じです。箱の前に立った事務員が最初にすることは、立ち尽くすことではなく、伝票と箱の数を照合することのはず。動作を書けば、立ち尽くしの感傷は要らなくなる。
残すべきは三つ。無償給与の裏に受領簿への押印があるという事実、前年度の余りを渡さず新品の予備を残しておく配慮、そして表紙に名前が書かれた瞬間に「物品」が「持ち物」に変わる一点。削るべきは、冒頭の「四月の希望」、留保語尾、棚や箱への擬人化、そして最終段の「私の春なのだ」という主題解説。改稿では、検品を擬人化や比喩でなく数で書き(「数を信じろ」ではなく、自分が一冊ずつ数えた事実で)、予備の確保は気持ちでなく毎年の転入数という経験則で根拠づけ、名前の書かれた教科書は一度だけ見せて黙って閉じること。意味は動作と数が運ぶ。希望や春が運ぶのではない。