ササモリチエ(48歳・学校事務26年)
四月の始業式の前、まだ子どもの一人もいない静かな校舎に、教科書の梱包が届く。新しい年度の希望が、その大きな段ボールの山に詰まっているのだと思うと、私は毎年、少しだけ胸が高鳴る。配送のトラックが帰ったあと、廊下に積み上がった箱の前で、私はしばらく立ち尽くしてしまうのだ。
教科書は無償だ。義務教育の子どもには、国が教科書を給与する。だから保護者からお金を集めることはない。けれど「ただで配る」というのは、事務にとっては「ただ」では済まない。教科書給与証明書という書類があって、どの学年に、どの教科を、何冊配ったか、一冊残らず記録しなければならない。無償の裏側には、必ず受領簿への押印がある。タダほど書類の多いものはない、と言ったら言い過ぎだろうか。
箱を開けると、検品が始まる。学年×教科×人数。私はチェックリストを手に、一冊ずつ数える。一年生の国語が三十二、算数が三十二、生活が三十二。出版社ごとに梱包の癖が違う。ある社はきっちり十冊ずつビニールで括ってくるし、別の社は数を信じろとばかりに無造作に詰めてくる。私はどちらの社のことも、長いつきあいで知っている。
新しい教科書の束には、匂いがある。インクと紙と糊の、あの匂いだ。何十冊もまとめて抱えると、ずしりと重い。腕の中で角がそろっていて、まだ誰の指も触れていない。この重さと匂いは、一年に一度しか嗅げない。それを知っているのは、たぶん学校の中で私だけなのかもしれない。
検品で大事なのは、足りているかだけではない。落丁・乱丁を探すことだ。ページが飛んでいたり、白紙が綴じ込まれていたりする本が、まれに混じる。見つけたら、出版社に交換を申請する。送り状を書き、不良の本を送り返し、新しい一冊が届くのを待つ。子どもが気づく前に、こっそり差し替えておく。落丁の交換は、いつも時間との競争だったように思う。
そして私は、人数ぴったりには注文しない。必ず予備を確保しておく。年度の途中で、転入生が来るからだ。前年度の余りを渡してはいけない、と私は決めている。背の少し焼けた、誰かの使い残しのような一冊を、新しい子に渡したくない。みんなと同じ、まっさらの新品を。だから予備の保管棚には、各教科の新品が、表紙をそろえて静かに待っている。その棚を見るたび、私は誰のものでもない教科書たちが、来るはずの子をいたいけに待っているような気がしてしまう。
配布日。担任が学級ごとの束を取りに来る。受領簿は学級ごとに束ねてあって、担任が一人ずつ印を押していく。一年一組、一年二組。判子の朱が、束の上に並ぶ。教室へ運ばれていく教科書は、まだ「物品」だ。台帳の上の、数でしかない。
放課後、教室から戻ってきた教科書を、私はときどき見かける。表紙に、鉛筆やフェルトペンで、子どもの名前が書いてある。「いちねん やまだ はなこ」。その瞬間、私の数えた一冊は、もう私のものではなくなっている。物品台帳の数字が、ひとりの子の「持ち物」に変わっている。名前が書かれた瞬間に、教科書は学校の備品であることをやめて、その子のものになるのだ。
二十六年、私は四月のたびに教科書を数えてきた。匂いを嗅ぎ、重さを抱え、落丁を探し、予備をそろえてきた。新しい年度のまっさらな希望は、いつも段ボールの山の形でやってくる。子どもに会わない私にとって、あの教科書の束こそが、私の春なのだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。