浜揚げの、冬
三年前の数十秒に、海が答えを返してくる季節

ササヅカリン(35歳・真珠の核入れ士12年)

冬になると、海の恵みが籠いっぱいに揚がってくる。三年前の春に私が核を入れた貝が、いまごろ沖から戻ってくるのだ。浜揚げは、核入れ士にとっての答え合わせの季節だと思う。

朝、まだ暗いうちに船が貝筏を引いて帰ってくる。籠ごと水から上げられた貝は、付着物にまみれて重い。冷たい海水が手の感覚を奪っていくのに、貝を開ける作業場だけは人いきれで湿っている。外は冬の海風、中は人の熱気。その温度差の中で、一日が始まる。

貝開けのナイフは、刃の短い専用のものだ。蝶番のすぐ脇に差し込んで、貝柱を一息に切る。迷って二度刺すと身を傷め、真珠まで傷がいく。核入れと同じで、ここでも速さがやさしさになる。剥いた貝の中から、白い珠が転がり出てくる瞬間がある。あの感触は、何年やっても慣れない。

揚がった貝には番号がついている。どの筏のどの段が、いつ、誰の手で核入れされたか、帳面と照らせば分かる仕組みだ。だから浜揚げの盆の上には、三年前の私の手が並んでいることになる。照りのいい珠も、形のいびつな珠も、核を吐いて空だった貝も——記録をめくれば、それが自分のものかどうか、ごまかしようがない。

選別係は、珠を盆の上で転がしながら、テリ、キズ、マキ、形、と等級の言葉でより分けていく。テリは表面の照り、キズは傷、マキは真珠層の巻きの厚み。同じ大きさでも、光を芯から返してくる珠と、表面で滑らせるだけの珠がある。良し悪しは、たぶん見る人が見ればすぐに分かるのだろう。

その年の海の条件が、珠にそのまま出る。赤潮の出た年は照りが濁り、台風で水が荒れた年は巻きが薄い。穏やかな海の年の珠は、自分でも惚れ惚れするほど澄んでいる。海がどんな一年を過ごしたか、珠を見れば書いてある。珠は、海の日記なのだ。

良い珠が出たとき、選別係は声を上げない。盆の上で一度、静かに回して光を見て、それから別の盆へ置く。その静けさが、いちばんの褒め言葉だと思う。逆に、いつもより核を吐いた貝が続くと、誰の手のだ、と帳面が繰られる。怖いのは、選別係が珠を見ただけで「これはあんたのだろう」と核入れの癖を言い当ててくることだ。表に出ない私の手元の癖が、三年越しに珠の形になって暴かれている。怖いけれど、有難いことでもある。

私は反省のメモを持って作業場に立っている。この筏は核がやや大きかった、この段はピースが厚かった、と、珠の出来から逆算して書きつけていく。来年の春の核入れに、この冬の答えを持ち越すためだ。浜揚げは終わりではなく、次の核入れの始まりなのだと思う。

三年の時差を置いて、海は嘘のない答えを返してくる。照りも、傷も、空の貝も、すべては海の日記であり、同時に私の手の日記でもある。あの春の数十秒が珠になって戻ってくるこの冬を、私はきっとこれからも、賭けの答え合わせとして生きていくのだろう。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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