核は強い。図面と現物が三十センチずれていること、投光器の下でロームが灰がかって沈むこと、仮復旧の黒い舗装が朝焼けの温かさを映していること。この三点だけで一本立つ。どれも、夜にアスファルトの上で土を抜いた人間しか書けない手触りがある。問題は、書き手がその三点を信用せず、「眠る街」という既製の額縁で全体を囲い、最終段でわざわざ主題を声に出して回収してしまっていることだ。デビュー作と同じ病が、別の場所で再発している。
「眠る街を支えるために、誰かが起きていなければならないのだろう。」
一枚目からこれです。「眠る街を、誰かが支えている」は、夜勤を扱うどんな文章にも貼れる量産シールで、ボーリング技士である必然がない。しかもこの書き手は、街を支えているのではなく、街の下を抜き取っている人だ。比喩を借りた瞬間に、デビュー作で確立した「最初に見る人」という固有の立ち位置が、ありふれた夜勤賛歌に薄まる。
「けれど、知られないことこそが、この仕事のいちばんの誇りなのだと、撤収のトラックの助手席で、朝日に目を細めながら思った。」
「誇りなのだと思った」と自分で判子を押して終わっています。「目を細めながら思った」は感慨の既製ポーズで、コアの縞を最初に読む人の手つきがない。誇りは「思った」と書いて伝わるものではなく、痕を消して帰る動作のほうがすでに伝えている。読者に渡すべき余白を、作者が先回りして埋めてしまった。
「朝に痕を残さないのが、夜の現場なのだ。」
これはエッセイの主題を、主題文としてそのまま書いた一行です。直前の段で、仮復旧した道路を最初の通勤者が何も知らずに歩いていく——もう全部書けている。それを抽象語で言い直した瞬間、せっかくの「何も知らずに歩いていった」の値打ちが下がる。意味は場面が運ぶ。解説が運ぶのではない。
「土の上に組むのとは少し勝手が違う。」「限られた時間との、静かな競争だったと思う。」
十五年やってきた技士が、自分の現場を「〜だと思う」で語るのは弱い。アスファルトの上でやぐらを組むことが土の上とどう違うのか——脚を据えるベースをどうするのか、舗装を切る順序はどうか——その人なら言い切れるはずです。「勝手が違う」で止めるのは、具体を持っていない作者の保険に見える。断定できる人物に、留保語尾を着せないこと。
「それでもロッドを継ぐときのパイプレンチの金属音は消せない。」
「金属音は消せない」は概念で止まっている。デビュー作では「継手をパイプレンチで締める。孔の中に泥水が落ちる音がする」と、音を具体で書けていた。夜の住宅街でその音が問題になるなら、何時にどの方向の窓から苦情の電話が来たのか、布をかませたのか、その一回を打つ呼吸を止めたのか——現場の一手が出るはずです。音を「消せない」と説明せず、消そうとした具体的な動作を書いてほしい。
「誰かが起きていて、誰かが眠る。」
この一文は、警備員の手記にも、病院の夜勤にも、長距離トラックの交代運転にも、そのまま置けます。対句の気持ちよさだけで中身がない。この現場に固有なのは、車の中の二十分の仮眠で、コーンの向こうを車が通るたびに体のどこかが反応してしまうことのほう——次の文で書けているのだから、対句は要らない。
「図面は嘘をつかない、と言いたいところだが、図面と現物が三十センチずれていることなど珍しくもない。だから私たちは、慎重に、慎重に掘る。」
ここは本作でいちばん良い。職業の論理が効いている。ただ「慎重に、慎重に掘る」で締めるのは惜しい。三十センチずれていると知っている人間が、本当はどう掘るのか——手掘りで管の天端を出すまで機械を入れない、とか、最初の一掻きをスコップでやる、とか。「慎重に」という副詞ではなく、慎重さの中身である動作を一つ置けば、この段は本作の背骨になる。
残すべきは四つ。図面と現物が三十センチずれること、投光器の下でロームが灰がかって沈むこと、仮眠中もコーンの向こうの車に体が反応してしまうこと、そして仮復旧の黒い舗装が朝焼けを映し、最初の通勤者が何も知らずに歩いていくこと。削るべきは、一枚目の「眠る街を支える」、最終段の「朝に痕を残さないのが夜の現場なのだ」と「誇りなのだと思った」、留保語尾、対句の汎用文。改稿では、痕が消えたことを最初の通勤者の足だけで見せて終え、主題は一行も書かないこと。意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。