セキモトアン(35歳・製餡所の職人13年)
朝四時、釜に火を入れる。砂糖を入れた瞬間、練りの抵抗が重くなる。木べらが餡に取られて、腕の付け根に来る。十三年、私の体はこの重さで時間を覚えた。小豆を餡に変える。それだけの仕事だ。
製餡には順番がある。割れた豆をはじき、水に漬けて起こす。それから渋切り——一度茹でて湯を捨て、渋を抜く。何回やるかで味が変わる。多ければ豆の味まで逃げ、足りなければえぐみが残る。そのあと本炊き、砂糖を合わせ、練り上げる。順番は決まっているのに、出来上がる餡は毎回違う。
入った年の春、親方に配合帳を見せられた。取引先ごとに頁が分かれ、頁の隅はどれも餡で茶色く汚れていた。どら焼きの「丸」の頁には、渋切り二回、糖度六五度。最中の「松」には、渋切り三回、糖度五八度。同じ小豆の頁が、店の数だけ違う数字で埋まっていた。親方は言った。「うちは餡屋だ。菓子屋の数だけ餡がある。同じ餡を二軒に売るな」。
どら焼きの皮はしっとり甘いから、餡は締めて砂糖を控える。最中の皮は香ばしく乾いているから、餡はみずみずしく柔らかく炊く。大福は餅とぶつかるから、粒を残して主張させる。餡は単体では完成しない。皮と、餅と、一緒に口に入ったとき、はじめて完成する。配合帳の数字は、その一口の設計だった。
粒餡とこし餡は、途中で工程が枝分かれする。粒餡は皮を残す。こし餡は炊いた豆を網で漉して皮を取る。網は目の粗さが何枚もあり、細かい網を通すほど舌触りはなめらかになる。同じ小豆が、網一枚で別の食感になる。豆は何も言わない。こちらの手の加減だけが、舌に出る。
北海道の豆でも、その年の天候で皮の張りも水の吸い方も変わる。だから浸漬の時間は毎回同じではいけない。漬けた豆を一粒つまんで、親指の腹で潰す。芯が残れば、まだ。すっと潰れて、潰れすぎないところで止める。それで今日の漬け時間を決める。「豆の声を聞く」と言う職人もいるが、私がやっているのは、指で芯を確かめることだけだ。
炊いた餡は、取引先の主人が味見に来る。匙ですくって口に入れ、黙る。私はその間、主人の匙が餡に立つ角度を見ている。深く立てば、まだ確かめている。匙が皿に置かれて、何も言わなければ、その餡は切られる。「松」の主人が一度、無言で匙を置いたことがある。糖度を一度下げすぎた朝だった。次の朝、私は配合帳の五八度を二重線で消さず、隣に小さく「五九」と書いた。
十三年で直した字は——いや、炊いた釜は数え切れない。覚えているのは、切られた餡のほうだ。「松」の、一度下げすぎた朝の一釜。あれから私は、誰かの口の中の一口を、釜の前で想像するようになった。