セキモトアン(35歳・製餡所の職人13年)
秋になると、北海道から便りが届く。今年の作柄を知らせる紙には、収量も、等級も、平年比の数字も並んでいる。それを読みながら、私はいつも思う。豆は大地の恵みだ。空と土と雨がそろって、はじめて一粒の小豆になる。その恵みを、私は釜の前で受け取っているのだと思う。
新豆が入荷する朝は、空気が違う気がする。麻袋を開けると、まだ畑の匂いが残っている。手のひらに掬って、目を近づける。粒は揃っているか、艶はあるか。虫食いの穴は、表面ではなく、豆の臍の脇に小さく開いていることが多い。だから一粒ずつ、臍の側を上に向けて見ていく。そういう検品をしているのかもしれない。
うちには選別の機械がある。色と大きさで弾く機械で、人の目よりずっと速い。けれど機械は、艶の死んだ豆と生きた豆を見分けられない。だから機械を通したあと、もう一度、手で掬って目で見る。機械の選別と、目の選別。二段構えにして、はじめて検品と呼べる。私は、機械が見落としたものを拾う係なのだ。
一升升に豆を掬って、両手で持ち上げる。乾いた豆は、軽い。水を残した豆は、わずかに重い。同じ一升なのに、手のひらに来る重さが違う。十三年やっていると、掬った瞬間の重さで、その豆がどれくらい乾いているか、だいたい分かるようになる。秤を使わずとも、手が先に知っている。
新豆だけがいいわけではない。古豆は悪ではない。一年寝かせた豆は、皮が締まって水を吸いにくいぶん、煮崩れしにくい。粒を立てて炊きたい大福の餡には、古豆のほうが向く朝もある。新豆はみずみずしく炊けるが、形が早く崩れる。新豆と古豆を、その日の菓子で使い分ける。古いものを使うのは、技術なのだと思う。
夏の終わり、産地の農家を訪ねたことがある。畑には小豆の莢が下がっていて、まだ青いものも、茶色く乾いたものもあった。莢を一つ割ってもらうと、中に豆が並んでいる。この莢の中の豆が、どんな粒になるか。それを想像しながら買い付けの値を決める。畑で豆を見るというのは、まだ見えていない豆を見る仕事なのだろう。
豆が高騰した年があった。作柄が悪く、相場が跳ね上がった。取引先には値上げをお願いしなければならない。質を落として安く保つこともできたが、親方はそれをしなかった。量を少し調整し、質はそのままにした。そして値上げの説明は、私が任された。なぜこの値になるのか、畑で見た莢のことから話した。数字だけでは、人は値上げを呑まないからだ。
検品ではじいた豆は、山になる。割れた豆、虫食いの豆、艶の死んだ豆。それらは餡にはならないが、捨てるわけではない。製菓の研究に回したり、社員の賄いの善哉になったりする。はじき豆にも行き先がある。完璧な粒だけが豆ではない。弾かれた豆を見ていると、そんなことを思う。
釜の前に立つ前に、私は豆と向き合っている。便りを読み、手で掬い、目で選び、畑を想像する。餡を炊くのは釜の仕事だが、その餡を決めているのは、たぶん、釜に入る前のこの時間だ。豆を見る目が、餡を決めるのだ。今朝も新豆の麻袋を開けて、畑の匂いを吸い込んでいる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。