核は強い。年に一度しか開かない味噌餡の配合帳、夏は喉ごしで設計を変えるこし餡、秋に手つきそのものが変わる栗と芋。とりわけ「桜が咲く頃には桜餅の餡はもう炊き終わっている」という一行は、このエッセイの全部を背負える芯だ。問題は、書き手がその芯を信用せず、「日本には四季があり」という観光案内で幕を開け、最後に「それが私の暦なのだ」と主題を自分で言い切って閉じてしまうこと。先回りの暦という発見を、発見の手触りのまま渡さず、結論として配ってしまっている。
「日本には四季があり、和菓子はその移ろいを写し取る器だと言われる。桜が咲けば桜餅、端午には柏餅、夏には涼やかな水羊羹。菓子は季節の便りだ。」
観光パンフレットの一段落です。「日本には四季があり」「季節の移ろいを写し取る」「季節の便り」は、和菓子を語るどのページにも貼れる既製の枕で、製餡所の職人が書く必然がどこにもない。十三年釜の前に立った人間の最初の一文が、なぜ「言われる」という伝聞なのか。あなたが見ているのは四季ではなく、貼り出された注文票の束のはずです。
「夜明け前から夜まで火を落とせない、慌ただしくも美しい季節なのだと思う。」/「煤けた釜の前で、湯気の向こうに新年が見えるようだった。」
「慌ただしくも美しい」「湯気の向こうに新年が見える」は、生成された“それっぽさ”の典型です。本当に火を落とせない春なら、出てくるのは美しさではなく、白餡の釜とこし餡の釜をどう回したか、二つでは足りないとき何を後回しにしたか、という段取りの具体のはずだ。湯気の向こうに見えるのは新年ではなく、明日の朝いちばんに漬けねばならない豆の量でしょう。
「私が一年でいちばん不器用になる季節なのかもしれない。」/「世間の師走より、半月ほど早く来る。」(前段「来るのだと思う」を含む全体の語り口)
あなたは前作で、体が重さで時間を覚えたと書いた人だ。その人が「〜かもしれない」「〜だと思う」を多用するのは不自然です。栗の季節に手つきが変わるなら、変わると断定すればいい。秋が不器用なら、何を取り落とすのか、どこで手が迷うのかを一つ書けば、留保はいらない。「かもしれない」は、観察の不足を語尾で埋める保険に見えます。
「去年の私が書き残した数字を、今年の私が再現する。たった一年でも、味の記憶は曖昧になる。頁の隅の走り書きだけが頼りで、釜の前で少し緊張する。」
ここが核なのに、肝心の数字が一つも出てこない。前作の配合帳は「渋切り二回、糖度六五度」と具体的だった。味噌餡なら、白餡何貫に味噌何匁、という走り書きが頁の隅にあるはずです。その一行を引かないから、「味の記憶は曖昧になる」が概念にとどまる。曖昧になるのは記憶ではなく、たとえば味噌の銘柄が去年から変わっていた、という具体的な狂いのはずだ。緊張の中身を書いてください。
「だから私の暦は、いつも世間より早く進む。季節の先回りをすること、それが私の暦なのだ。」
完全に解説文です。その直前の「桜が咲く頃には、桜餅の餡はもう炊き終わっている」が、すでに全部を言っている。映像で言い切ったことを、抽象語で言い直すたびに、映像の値打ちが下がる。「それが私の暦なのだ」は前作の「私をいまの私にしてくれた」と同じ自己回収の判子で、コウノアサコの結びと見分けがつかない。主題を主題文として書いた瞬間、それは要約になります。
「秋は、私が一年でいちばん不器用になる季節なのかもしれない。」/「栗は渋皮を剥き、茹でて裏ごす。芋は蒸して、繊維を整える。」
後者は段取りとして正しいが、教科書の手順書でも書ける汎用文で、あなたの手が出ていない。十三年の職人なら、栗の渋皮で爪が割れるとか、裏ごしの裏に残る筋の量で甘露煮にするか餡にするか決める、といった手の固有名が出るはずです。「不器用になる」と言葉で言うのではなく、小豆の体と栗の体で何が違うのかを、動作で一つ示す。職業エッセイは、手つきを抽象語で要約した瞬間に嘘に見えます。
残すべきは四つ。年に一度しか開かない味噌餡の配合帳とその走り書きの数字、夏のこし餡を喉ごしで設計し直すこと、秋に小豆とは別の体になる栗・芋の下処理、そして「桜が咲く頃には桜餅の餡はもう炊き終わっている」という先回りの一行。削るべきは、四季の常套句の枕、「慌ただしくも美しい」「新年が見える」の叙情、留保語尾、そして最終段の「それが私の暦なのだ」という主題解説。改稿では、味噌餡の頁から具体的な数字を一つ引いて緊張の根拠を作り、先回りの暦は説明せず、桜の前に炊き終わる釜の事実だけで閉じてください。意味は段取りが運ぶ。説明が運ぶのではない。