第一稿は、扱う問題(AI時代、生物多様性、子供を持つか、人生の意味)が大きすぎて、書き手の視線がどこにも長く止まれていない。タカハシとの飲みも、アッテンボローのドキュメンタリーも、三つの結論も、すべて表層で通り過ぎる。さらに「三つの結論」を律儀に並べる構造が、出典動画の段取りをそのまま日本語にしている印象を強くする。改稿の方向は単純で、議論の場面を一つだけ選んで、そこに紙幅の半分以上を投じる。三つの結論は明示的に並べず、エピソードの中に潜ませる。以下、八観点で指摘する。
研究室を出る前に、明日の朝に取り組む論文の校正用紙を、机の真ん中に置いておいた。タカハシは明日も核融合炉のシミュレーションを回している。私は明日もAIの言葉の使われ方を観察する。
「それぞれの仕事が続いている」で締めるのは、本稿の構造から完全に予想できる。三つの結論を並べた直後に、その結論を仕事の継続に重ねて閉じる、という流れは、自己啓発系のテキストの定番である。落とすなら、別の動詞か、別の場所で取るべきだ。
栓の抜けた瓶のように、もう誰にも止められない。
「栓の抜けた瓶」は出典動画の "the genie is out of the bottle" の直訳調で、しかも日本語の比喩としては手垢がついている。比喩を使うなら、シマダ自身の研究の現場で起きていることを直接書いた方がいい。「便利さの裏で、別のものが薄くなっていく」のような、比喩を使わない直接的な観察の方が、本稿のシマダの声に合う。
……たぶん/……気がする/……かもしれない/……だろう/……と思う
本稿全体で「たぶん」が六回、「気がする」が二回、「思う」が八回以上ある。AI研究者のシマダの語りに、これだけ留保が出ると、観察者としての腰が据わっていない印象になる。観察として断言できる箇所は断言する。「プロンプトを書く側の人間の言葉が、AIの答えに合わせて少しずつ縮んでいく現象を、私は毎日観察している」のような断言は強いが、その後に続く文の留保が、それを希釈してしまっている。
大学院時代の同期で、いま物理学の研究所で働いているタカハシと、久しぶりに飲みに行った。
タカハシは本稿の重要人物のはずだが、ほぼ何も書かれていない。どんな店で飲んだか、彼が何を頼んだか、店の壁に何が貼ってあったか、彼が技術楽観論を語る時の手の動き、ビールの何杯目で「シマダ、たぶん大丈夫だよ」と言ったか、彼の言葉のどこに彼自身の不安が漏れていたか——これら一つもない。タカハシは現状では、技術楽観論の意見を運ぶための紙の人形である。改稿では、彼を生きた人物にする一つの具体が必要だ。
一つ目は、生命を育むこと。/二つ目は、創造すること。/三つ目は、ただいまここにあること。
三つを箇条書きで並べる構造は、出典動画の段取りをそのまま引いている。エッセイとしては、三点並列は平板になりがちで、それぞれの結論が一律に薄くなる。本稿で最も具体的に深く書けるのは、AIと「創造」の対比の段落である。これだけを残し、他の二つは別のエピソードの中に潜ませる方が、エッセイの体になる。
「お茶でも淹れる?」と声をかける、そういう小さなことから始まる。
「お茶」が、シリーズの別の書き手(リンメイファ、ワタナベの妻)でも結末や象徴として繰り返し使われており、サイト全体としてキャラ印が「お茶で締める人たち」に均質化しつつある。シマダは別の小道具を使うべきだ。たとえば、机の校正用紙、研究室の白板、ホワイトボードの消しカス、論文の引用番号、そういう研究者シマダ固有の物の方が、キャラの輪郭が立つ。
過去の言ったこと、未来の不安、それらに頭を取られると、目の前の今が見えなくなる。
この一文は、誰が書いても通る。シマダの観察ではなく、自己啓発の常套句である。シマダ固有の声を出すなら、AIに「今この瞬間」を入力した時のAIの応答の貧しさ、もしくはタカハシが「いま」をどう生きているかの観察、のような、シマダの仕事から出てくる具体に置き換えるべきだ。
子供を持つかどうかは、まだ決められない。決められないままでも、たぶんいい、と最近思うようになった。
「決められないままでいい」と自分に許可を出すのは、典型的な自己赦しの構造である。エッセイの結末としては、決断の有無ではなく、決断の手前で何を観察したかを書く方が強い。たとえば、タカハシの楽観論の中に見つけた一つの矛盾、もしくはタカハシ自身の沈黙の場所、で閉じる方が、シマダの観察者としての視線が活きる。
本稿に残すべき核は一つ:「タカハシという技術楽観論者の友人と飲んだ夜、シマダはどこで彼の楽観に同意できなかったか」である。アッテンボローのドキュメンタリー、三つの結論、エレノア・ルーズベルトの引用は、すべて削るか、タカハシとの会話の中に小さく挿入する。改稿の構造は、店の選択・席の位置・タカハシの最初の一言から始めて、三十分か四十分の会話を、全部とは言わないが、決定的な数分間を逐語的に再構築する。シマダがどこで「違う」と思ったか、それを口に出したか出さなかったか、店を出た後に何を考えたか、で閉じる。AIと「創造」の対比は、その会話の中の一節として残す。三つの結論は、明示的には並べない。エッセイの後半で読者が三つを取り出せる構造になっていれば、それで十分である。