シマダ(AI使用法研究者)
最近の時代は、ずいぶん変わっている。技術はずっと進歩を続けてきたのだけれど、ChatGPTのようなAIモデルが世に出てきてから、その速度が桁違いに上がっている気がする。栓の抜けた瓶のように、もう誰にも止められない。これがこれから先、何をどう変えるか、本当のところは誰も分かっていない。仕事のかたちが何年後にどうなっているか、私自身も分からない。世界はパンデミックを抜けたばかりで、今度は不況に入ろうとしている。気が休まらない時期だ。
そんな夜、私は研究室の机から離れて、人生の意味について考えていた。何のためにこの惑星にいて、何をしているのか。古い問いだけれど、こういう時代だと、急に重さが戻ってくる。
先日、デイヴィッド・アッテンボローのドキュメンタリーを見た。彼が六十年以上の生物学者・歴史家としてのキャリアで目撃してきた、地球の生物多様性の劇的な減少の話。今世紀の残りの予測——森林破壊、世界的な食料生産の低下、気温上昇による次の大量絶滅の可能性——を、八十代後半の彼が静かに語っていた。
見終わった後、私は黙っていた。研究室のソファーに座って、ノートを開いて、何も書かずに閉じた。
翌週、大学院時代の同期で、いま物理学の研究所で働いているタカハシと、久しぶりに飲みに行った。私はアッテンボローの話を切り出した。「あんなものを見た後で、子供を持つかどうかって、真剣に考えてしまうんだよね」。私は最近、その問いを抱えていた。子供をどんな世界に連れてくることになるのか、と。
タカハシの答えは、私の予想と違っていた。「シマダ、たぶん大丈夫だよ」と彼は言った。「人間の科学は思っているより速く進むから」。
タカハシは技術楽観論者だ。彼が知的不誠実だから楽観しているのではない。むしろ、毎日エネルギー問題や核融合や材料科学の最前線を見ているから、進歩の現実の速度を知っている、と本人は言う。「五十年前のコンピュータを今と比べてみなよ。気候変動も似たような曲線で対策が進む。人類は宇宙にも出る。地球の問題は地球の中で解決できる規模に、いずれ収束する」。
私はAIの研究をしているけれど、タカハシほど楽観できない。AIの進歩の速度は確かに速い。けれど、その速さがそのまま「人類の幸福」に変換されるとは、私には見えない。プロンプトを書く側の人間の言葉が、AIの答えに合わせて少しずつ縮んでいく現象を、私は毎日観察している。便利さの裏で、別のものが薄くなっていく。それを科学の総進歩と単純に足し算するのは、たぶん間違っている。
タカハシと私は、最終的に意見が一致しなかった。彼は「歴史を信じろ」と言い、私は「歴史は条件付きで進んできた」と返した。話の結論は出ないまま、最後の一杯のビールが温くなった。
家に帰ってから、私は人生の意味について、いくつかの哲学を頭の中で並べてみた。宗教は神の計画の一部だと言う。仏教は執着を超えて悟りを目指すと言う。快楽主義は喜びの最大化と苦痛の最小化を言う。虚無主義は意味そのものを否定する。アルバート・ハバードの「人生をあまり真剣に取りすぎるな、どうせ生きて出られないのだから」という言葉も思い出した。
これらを並べた後で、私自身にとっての答えとして、三つだけ書き出した。
一つ目は、生命を育むこと。私たちが知る限り、生命はこの小さな惑星の上にだけある。この一点はタカハシの楽観も否定はできない事実だ。生命の灯を絶やさないようにする責任が、生きている間、私にはある。生物にも、人にも、自分自身にも、優しさと思いやりを向けること。これは抽象的に聞こえるが、私の場合は、研究室で論文を読んでいる時に隣の博士後期の同僚に「お茶でも淹れる?」と声をかける、そういう小さなことから始まる。
二つ目は、創造すること。私たち人間は、新しさと美しさの源だ。何かを作ること——絵、音楽、考え方、文章、彫刻、科学的発見——は、生命の体験そのものを豊かにする。多くの宗教が、神の創造の力を人間の中に見るのは、ここに理由がある。
ここでAIとの違いを、私はあえて書いておきたい。AIは過去の人間が生み出した膨大なデータで学習している。新しい組み合わせは作れる。けれど、データの外側にある「まだ世界に無いもの」をAIは作れない。人間は——少なくとも今のところは——その境界の外に手を伸ばせる存在だ。タカハシが研究している核融合炉も、誰も見たことのない構造を、まず人間が紙の上に描いた。AIはまだそれをしていない。
三つ目は、ただいまここにあること。私たちはこの宇宙が自分自身を体験している瞬間だ、と言ってもいい。過去の言ったこと、未来の不安、それらに頭を取られると、目の前の今が見えなくなる。エレノア・ルーズベルトの引用に「昨日は歴史、明日は謎、今日は贈り物。だからpresentと呼ぶ」というのがある。語呂合わせだけれど、これは私の毎日の真ん中にある。
三つ書き出して、ノートを閉じた。研究室の窓の外、もう夜の十一時を過ぎていて、隣の理工学部の建物の灯りもほとんど消えていた。タカハシの楽観論と、アッテンボローの予測と、私の三つの結論は、まだ私の中で完全には一致していない。たぶん一致しないまま、私はこの先も研究を続けて、論文を書いて、たぶん何人かの学生を育てて、それで一年ずつ歳を取っていく。
子供を持つかどうかは、まだ決められない。決められないままでも、たぶんいい、と最近思うようになった。決断は、する前の自分の経験の積み重なりが整わないと出てこないものだ。今夜の私はまだ、十分には積み重ねていない。
研究室を出る前に、明日の朝に取り組む論文の校正用紙を、机の真ん中に置いておいた。タカハシは明日も核融合炉のシミュレーションを回している。私は明日もAIの言葉の使われ方を観察する。それぞれの仕事の中に、たぶん、三つの結論のうちのどれかが、今日も小さく続いている。