核は強い。麻紐の手縛りをほどきながら結び目の順番を覚えること、藁と馬毛の層がまだ百年前の弾力を保っていること、そして「昔のまま直すか、座りやすく直すか」という一問。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用しきれず、「時を超えてきた名品」式の既製の叙情で椅子を持ち上げ、留保語尾で核をぼかし、最終段で「それが職人なのだ」と自分で主題を言い切って締めてしまっていることだ。この語り手は中身を作る人間である。中身で語れるのに、なぜ表の言葉で締めるのか。
「時を超えてきた名品の前では、二十五年の職人もただの生徒になる。」
「時を超えてきた名品」は、骨董を語るどの広告にも貼れる出来合いの台詞です。この語り手が本当に椅子を見ているなら、出てくるのは「名品」という値踏みの言葉ではなく、八本のコイルを八方向から縛った具体の構造のはずです。後段でその構造はちゃんと書けている。だからこそ、冒頭で安い叙情に頼ったのが惜しい。椅子を持ち上げる形容は、椅子そのものに語らせれば要らない。
「百年前の職人から手渡しで工程を教わっているようなものだったのかもしれない。」「中身の歴史というものが、確かにそこにあった。」「それが職人なのだと思う。」
結び目を一つずつほどいて順番を確かめる人間が、その確かめた事柄を「〜かもしれない」「〜と思う」で出してくるのは妙です。手縛りをほどいた人間は、工程を「教わったようなもの」ではなく、教わったと断言できる。留保は謙虚さではなく、断言を避ける作者の保険に見える。職人の手は迷わない。語尾だけが迷っている。
「ほどいて学ぶ。結局のところ、それが職人なのだと思う。表に出ない層を作り続けてきた私が、いちばん多くを教わるのは、いつも見えない下の層からなのだ。」
エッセイの主題を、主題文として書いて締めています。「それが職人なのだ」「見えない下の層から教わる」は、本文が動作で示したことの抽象的な言い直しにすぎない。麻紐をほどいて順番を覚える場面が、すでに「ほどいて学ぶ」を全部やっている。それを最後にもう一度ことばで宣言するたびに、ほどく手の値打ちが下がる。読者に渡すべき結論を、作者が先に回収してしまっている。
「結び目の一つ一つが、私の知らない手順で締めてあった。ほどきながら順番を覚える。」
「私の知らない手順」は概念であって観察ではない。実際にほどいた人間なら、どこが今と違ったかを一点、具体に言えるはずです——締める向きが逆だったとか、自分なら二度かける所を一度で留めていたとか。その一点があれば、百年前の手は実在する。なければ「知らない手順」はただのレトリックで、語り手はじつは何もほどいていないことになる。職業エッセイは、ここを抜くと全部が嘘に見える。
「それぞれの椅子には、それぞれの正解があるものなのだ。」「古い椅子に対する礼儀のような気がしている。」
段落ごとに小さな教訓で締める癖がある。英国とフランスで枠の組みが違う、という観察はそれ自体で立っているのに、「それぞれの正解がある」と一般論で蓋をしてしまう。年代の生地を一枚見せる話も、「礼儀のような気がしている」と情緒で丸める。観察を出したら、教訓を足さずに次へ行く。蓋をするたびに、せっかくの具体が一般論に痩せていきます。
「新しい椅子では学べないことが、古い椅子のなかには全部詰まっている。」
この一文は、骨董を扱う家具屋にも、古時計の修理人にも、古民家の大工にも、そのまま置けます。「全部詰まっている」が何を指すのか——麻紐の締め方か、馬毛の詰め方か、枠の組みか——を書かなければ、文は中身ゼロのまま響きだけ立つ。この書き手の強みは、まさにその「全部」を分解して名指せることなのに、ここでは束ねて捨ててしまっている。
「昔のまま直しますか。座りやすく直しますか」「下にウレタンを一枚忍ばせれば、ぐっと楽になる。ただし、それはもうこの椅子ではなくなる。」
核心の一問なのに、その先の手つきが書かれていません。復元を選んだ客には、馬毛をどう足し直し、麻紐をどの順で縛り直すのか。現代化を選んだ客には、ウレタンを馬毛の上に入れるのか下に入れるのか、何ミリ入れるのか。前作「張りの、下」では密度と厚みをミリ単位で書けていた人です。ここでも「忍ばせれば楽になる」で止めず、選択がどんな手の違いになるかまで踏み込めば、思想の選択が手の選択として立ち上がる。
残すべきは三つ。麻紐の手縛りを「向きが逆だった」ような一点の具体とともにほどく場面、藁と馬毛の層が今も生きている弾力、そして「昔のまま直すか、座りやすく直すか」を手の違いとして示すこと。削るべきは、「時を超えてきた名品」の既製の叙情、「〜かもしれない」「〜と思う」の留保語尾、各段の教訓化、そして「それが職人なのだ」式の最終段の主題解説。意味は、ほどく手と、足す馬毛のミリ数が運ぶ。語り手が言葉で締めなくていい。