シオデマモル(47歳・椅子張り職人25年)
新しい椅子を張るのは、いわば自分の流儀を通す仕事だ。だが古い椅子が持ち込まれると、立場が逆になる。私は教わる側に回る。表の布をめくった下に、百年前の職人の手が、そっくりそのまま残っているからだ。時を超えてきた名品の前では、二十五年の職人もただの生徒になる。
古い椅子を持ち込む客は、まず来歴を話したがる。蚤の市で見つけた、祖母の家にあった、誰それの遺品だ、と。私はそれを一通り聞く。座り心地に来歴は関係ない、と言ってしまえばそれまでなのだが、来歴を聞かないと、客がその椅子に何を求めているのかが分からない。飾るために直すのか、また座るために直すのか。それは布や層の選び方を、根本から変えてしまうのだ。
先月持ち込まれたのは、英国の食堂椅子だった。客は「祖父母の代から家にあった」と言った。座面を裏返すと、麻紐でスプリングを縛った手縛りが出てきた。ウレタンなどない時代の仕事だ。八本のコイルスプリングを、麻紐が八方向から縛り上げ、てっぺんを揃えて固定してある。結び目の一つ一つが、私の知らない手順で締めてあった。ほどきながら順番を覚える。これは、百年前の職人から手渡しで工程を教わっているようなものだったのかもしれない。
麻紐の下には、馬毛の層があった。藁を下地に詰め、その上に馬毛を厚く敷いて、麻布で押さえてある。馬毛は弾力があって、湿気を逃がす。ウレタンが普及する前は、これが上等な椅子の中身だった。指で押すと、百年前の弾力がまだ生きている。化学の素材ではない、生きものの毛が、こうして人の体を百年支えてきたのだ。中身の歴史というものが、確かにそこにあった。
こういう椅子では、客に必ず一つ訊くことがある。「昔のまま直しますか。座りやすく直しますか」。手縛りと馬毛をそのまま再現すれば、座り心地は百年前のままだ。だが今の人の腰には硬い。下にウレタンを一枚忍ばせれば、ぐっと楽になる。ただし、それはもうこの椅子ではなくなる。復元か、現代化か。値段も思想も違う二つの道を、私は淡々と並べて見せる。選ぶのは客のほうだ。
英国の椅子とフランスの椅子は、枠の組み方の癖が違う。英国のものは、枠の木が太く、ほぞ組みがきっちり詰まっている。フランスのものは、枠が華奢で、装飾の彫りに沿って布を入れる手間がかかる。同じ「百年前の椅子」でも、生まれた国の手癖が枠に残っている。直すときも、その国の流儀に合わせる。英国の椅子を、フランスの締め方で直してはいけない。それぞれの椅子には、それぞれの正解があるものなのだ。
布を選ぶときは、年代を考える。その椅子が生まれた頃にあった柄、なかった柄がある。一九二〇年代の椅子に、いかにも現代的な幾何学のプリントを張ると、椅子だけが時代から浮いてしまう。私は、その椅子が生まれた頃の生地に近いものを何点か提案する。客が現代の柄を選ぶなら、それでもいい。だが、選択肢として時代に合う一枚を見せておくのが、古い椅子に対する礼儀のような気がしている。
直した椅子が戻る家のことも、聞いておく。玄関に飾るだけの椅子なのか、毎日座る椅子なのか。飾る椅子なら、見た目を最優先して復元する。座る椅子なら、見えないところでウレタンを足し、座面の沈みを今の体に合わせる。同じ「直す」でも、使われ方で仕様が変わる。聞き取りをしないと、せっかく直した椅子が、その家で居場所を持てない。
百年前の職人は、もういない。名前も知らない。だが、その人が縛った麻紐をほどき、結び目の順番をたどっていると、手のなかでその人と話しているような気になる。新しい椅子では学べないことが、古い椅子のなかには全部詰まっている。ほどいて学ぶ。結局のところ、それが職人なのだと思う。表に出ない層を作り続けてきた私が、いちばん多くを教わるのは、いつも見えない下の層からなのだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。