核は強い。柔らかい蹄を「削りやすいぶん、削りすぎる」と言い、指の腹で厚みを確かめる手つき。「この子はまだいいべ」への、内と外の高さの違いを見せながらの反論。子牛の削蹄が治療ではなく予防だという一点。この三つだけで一本立つ。問題は、書き手がその三つを信用せず、最初の経験論を最終段で二度も直叙して回収し、子牛を怖がりの心理劇に仕立ててしまっていることだ。前作「蹄の、角度」で削り落としたはずの悪癖が、二作目で戻ってきている。
「牛も人も、最初の経験が、その後のすべてを決めてしまうのかもしれない。」/「最初の経験が一生を決めるのだ。」
同じ主題文を、八枚目で留保つきに、九枚目で断定で、二度言っています。一度目で薄め、二度目で押し直すのは、作者が自分の主題を信用していない証拠です。しかも「次も楽だ/最初に痛い思いをした子は枠場を見ただけで暴れる」という具体が直前にあるのだから、主題は既に動作で語り終えている。抽象文で言い直すたびに、その具体の値打ちが下がる。エッセイの主題を主題文として書いたら、それは要約です。
「柔らかい蹄に鎌を入れるたび、私は予防という名の祈りを、その子の足元に置いているのだと思う。」
「祈りを足元に置く」は、削蹄師のものではなく、どのエッセイ末尾にも貼れる詩語のシールです。前作のレビューで、道具の静物画で締める「余韻の偽装」を指摘されたはずですが、今回は祈りに置き換えただけ。この書き手の締めは、感情の比喩ではなく、削った蹄が次にどう着地したか――一つの動作で終わるべきです。
「治療ではなく予防なのだと思う。」「声の調子だけは伝わるのではないかと思う。」「水気を含んだ若木のようだ。」
十五年蹄だけを見てきた人間は、予防か治療かを「思う」のではなく、知っている。とくに「予防なのだと思う」は、このエッセイの核を留保で弱めていて致命的です。「〜と思う」「〜のではないか」は、怯えた語り手の心理ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。削蹄師は爪先一枚の境目を断定で決める職業だと、前作が証明していたはずです。
「朝の牛舎は、いつものように牧歌的な光に満ちていた。」
「牧歌的」は前作第一稿でも使われ、レビューで「糞とサイレージの匂い」に直された語です。同じ手抜きが二作目の冒頭でまた出ている。この書き手にとって朝の牛舎は風景ではなく仕事場で、出てくるべきは光ではなく、子牛がまだ枠を知らない――つまり大人の牛と違って、入口で足を踏ん張る音や、群れと離された鳴き声のはずです。雰囲気が人物より先に立っている。
「吊られた途端に暴れ、目を白くして鳴いた。」「やがてその子は、観念したように動かなくなった。」
「目を白くして」「観念したように」は擬人化の常套句で、削蹄師の観察ではありません。子牛が大人の牛とどう違うかは、心理ではなく保定の手応えで出るはずです――ベルトを回しても腹に力が入りっぱなしだとか、後肢を上げると蹴り返してくる強さが成牛と違うとか。「二回目からの変わり方」も、題材に挙げながら本文では「最初ほど怖がらずに歩いていった」の一行で流している。次の回の手応えの軽さこそ、この職業にしか書けないところです。
「生まれつき内股気味の子がいる。蹄の伸び方が左右で違う子がいる。」
「番号で呼ばれる子牛にも蹄を見れば個体差がある」という着眼は良いのに、提示が箇条書きの概念どまりです。せっかく耳標の番号を出したのだから、特定の一頭――たとえば「四七番」の蹄が前回と今回でどう違っていたかを、一例の実物で書けば、個体差は説明せずに立ち上がる。「唯一の牛だ」と宣言するのではなく、唯一であることを蹄の形一つで見せてください。
「言葉が通じないのは分かっている。それでも、声の調子だけは伝わるのではないかと思う。」
この二文は、犬の散歩のエッセイにも、馬の調教のエッセイにも、そのまま置けます。削蹄師が八百キロ近い育成牛を保定しながら本当に頼るのは、声ではなく、足の抱え方や体の当て方といった物理のはずです。声をかけるなら、それは牛のためか、自分の手を落ち着かせるためか――どちらなのかを書かなければ、人物の手は存在しないのと同じです。
残すべきは四つ。柔らかい蹄の「削りやすさは、そのまま危うさでもある」、指の腹で厚みを確かめる手、「この子はまだいいべ」に内と外の高さの違いで返す場面、そして治療ではなく予防だという一点。削るべきは、「牧歌的な光」の冒頭、二度繰り返す「最初が決める」、留保語尾、祈りで締める末尾、目を白くする心理描写。改稿では、子牛と成牛の違いを保定の手応えで書き、個体差は耳標の一頭の蹄で見せ、最初の経験論は説明せず「二回目の、軽い手応え」という動作一つで終わらせてください。前作で学んだはずだ――意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。