昭和の転職観——『石の上にも三年』はいつ死んだか
消えた労働語彙の目録、38年勤続者の身体から

ワタナベ(65歳・元会社員)

退職して四年目になる。ソノダさんに誘われて昭和語彙の考古学を始めてから、素材帳に並べてきた語はずいぶん増えた。団欒、満員電車、社宅、社内結婚、残業の風景。どれも私の身体の外縁にあった語だが、今回の題材だけは違う。今回、私が一番自分の身体に近い場所で向き合う題材は「転職」である。

38 年、一社で勤め上げた。私の世代の言い方をすれば、入社から定年まで同じ名刺を持ち続けた、ということになる。その名刺の重さが、現役時代に自分の姿勢を規定していたことは、辞めてから気づいた。重しが外れて、身体の骨格が少し変わったような感じがある。

現役時代、昼休みや飲み会の端で「あの人、転職したらしいよ」という声を何度聞いただろう。その言葉は、単なる事実の報告ではなかった。軽い同情と、かすかな疑問と、底の方にある小さな蔑視が、薄い層になって積み重なっていた。口にする側は、それを悪意とは思っていない。言われた人間がその場にいないのだから、ただの世間話のつもりだった。だが世間話の語気の方向は、はっきりと「転職した人」の側に不利に傾いていた。

その口ぶりを、いまの若い人に説明するのは難しい。説明すると、たいてい「なぜですか」と返ってくる。なぜ転職がネガティブに響いたのか、その前提そのものが消えている。前提の消滅を前に、私は語彙だけを記録しておこうと思う。今回の素材は 15 から 20 語の昭和転職観語彙を並べ、それぞれがいつ頃まで普通に使われ、いつ頃から使われなくなったか、隣接する語彙は何だったか、を整理する。あくまで私の体感に根ざした年代感覚で、学術的な統計ではない。田島部長や森川さんの降霊録でも触れたように、語彙の生没年は、辞書より身体の方が先に知っている。

石の上にも三年

入社したのは昭和 60 年の四月だった。研修の最初の週、人事部の古い部長が、新入社員を前にして「石の上にも三年と言うからな」と言った。そのあと何度、この言葉を先輩や上司の口から聞いたか、数えきれない。昭和 60 年代、先輩から新入社員に最もよく投げられる言葉だったと言ってよい。

もともと江戸期の諺で、冷たい石の上でも三年座り続ければ温まる、という意味の一般的な忍耐の訓えである。しかし昭和の会社員文化の中では、意味が狭められていた。「新入社員は三年は同じ会社で耐えろ」。それ以外の用法で聞いた記憶がほとんどない。

なぜ三年なのかは、誰に聞いても曖昧だった。新卒採用コストの回収期間だという人もいれば、業務の一通りが身につく最短期間だという人もいた。結婚適齢期と結びつけて、女性なら結婚、男性なら家庭を持つまでの助走期間、と説明する先輩もいた。根拠はばらばらで、ただ「三年」という数字の座りの良さだけが共有されていた。

私の新人時代、同期で一年もたずに辞めた男が一人いた。彼のことを、人事の先輩は「石の上にも三年ができない奴だ」と評した。軽い侮蔑を含んだ言い方だった。その男は結局、同業他社に移って、十年後には管理職になった。昭和の基準で侮蔑された振る舞いが、平成を経て、普通のキャリア選択に格上げされた。

2010 年代以降、転職市場が成熟し、三年耐える、の前提は静かに崩れた。今の若い人たちは、一年以内に転職しても経歴の傷にならない。採用側も、短い在籍期間を「合わなかった、よくあること」と受け止める。「石の上にも三年」という言葉を、2020 年代以降、ほぼ聞かなくなった。使う場面を失った語は、どんなに由緒が古くても、日常から退場していく。諺そのものは死なないが、会社員文脈での特殊用法は、確かに死んだ。

腰掛け

「腰掛け」は、女性社員について使われた。結婚・出産までの一時的な就労、という含みを持つ語で、ほとんどの場合、男性社員が男性社員に向かって口にした。「あの子は腰掛けだからな」「うちの部署の新人、腰掛けだろう」。本人が聞いていない場所で、軽く品定めするように使われる。

私が入社した頃、女性の一般職は結婚退職が暗黙の前提とされていた。会社によっては「若年定年制」と呼ばれる制度が残り、女性社員に三十歳前後での退職を迫る慣行すらあった。田口さんの降霊録で触れた「寿退社」は、その制度の肯定的な翻訳である。「腰掛け」はその否定的な翻訳で、同じ事柄を反対側から眺めた語だった。

腰掛けの対概念は「本気で働く」だった。女性が本気で働くことは、昭和の会社では異例と見なされていた。本気で働く女性社員は、同僚から距離を置かれ、上司からは扱いに困る存在と見られ、男性の同期からは「面倒な奴」と評された。彼女たちのほとんどは、男性以上に成果を上げても、管理職に昇進するルートを閉ざされていた。

1986 年、男女雇用機会均等法が施行された。法の名前は知れ渡っても、現場の語彙が変わるには時間がかかった。1990 年代前半、同期の女性の何人かが、結婚しても辞めずに働き続け、育児休業を取って復職するようになった。その頃から「腰掛け」は、口にしにくい語になっていった。先輩世代の男性は無意識に使い、私の世代は使う前に一瞬ためらい、後輩世代は聞いたことがない、という三層構造があった。

2000 年代に入って、職場で「腰掛け」を聞くことは、ほぼなくなった。ただし、同じ構造、つまり一時的雇用という実体は、別の語彙に移行して残った。「派遣」「契約社員」「有期雇用」。これらの語は、ジェンダーを外して、階層を示す語として再編された。腰掛け、という言葉の性差別性が消えた代わりに、雇用の不安定性そのものは男女共通の問題として残った。語が消えても、構造が消えたわけではない。むしろ、名前を失った構造は、名前があった時代よりも輪郭が見えにくい。

職人気質

「あの人は職人気質だから」。昭和の会社で、転職しない人、頑固に一つの技能を磨く人、融通の効かない人、そうした人物像を一括りにする便利な形容だった。褒め言葉としても、少し揶揄する含みとしても使われた。同じ語が同じ人物について、昼は褒め、夜は揶揄になる。文脈の振幅が大きかった。

私の最初の直属上司は、機械設計一筋三十年の技術者で、同期からも部下からも「職人気質」と評されていた。本人もその評価を嫌がらず、むしろ誇っていた節がある。彼は転勤も異動も拒み、定年まで同じ設計課にいた。そのような生き方が、昭和の会社では一つの美徳として成立していた。

職人気質は、一社で長く勤める、という振る舞いの肯定的な翻訳でもあった。転職者にこの語が使われることはなかった。転職する人は「要領がいい」「立ち回りがうまい」と評された。要領がいい、という形容は、表面上は能力の肯定だが、底には「節度のない計算高さ」への警戒が混ざっていた。職人気質の誠実さと、転職者の要領よさが、暗黙のうちに対立軸として配置されていた。

2010 年代以降、「職人気質」は消えてはいないが、会社員の文脈で使われることはほぼ無くなった。使われる先は、伝統工芸、寿司職人、家具職人といった、狭義の職人業に限定された。会社員の勤続を「職人気質」と呼ぶ土壌が、そもそも消えたのだ。勤続そのものが美徳でなくなれば、それを称揚する形容も居場所を失う。

定年後の余生

「定年後の余生」という言い方を、私が二十代の頃、上司たちは普通に口にした。「余生は庭いじりでもしながら」「余生のために貯金しておかないとな」。それは慣用の挨拶に近い響きを持っていた。

当時、定年は六十歳で、その後の人生は「余りもの」と捉えられていた。余生は十年、長くて十五年、という想定だった。日本人男性の平均寿命は昭和 60 年頃で七十五歳前後だったから、計算上もそう外れてはいない。その想定の上で、退職金と年金と細い預金で食いつなぐ、という人生設計が標準だった。

この言葉には、現役時代こそが人生の本番、という前提が染みていた。定年以後は、本番を終えた後の静かな時間で、社会の主流から降りて、家庭と趣味と近所付き合いだけで暮らす。その降り方を「余生」という柔らかい語で包んでいた。

実際の平均寿命が伸びた。男性も八十を超えるようになり、女性は八十代後半に達した。定年も六十五歳に延び、再雇用や継続雇用が普通になった。六十五歳でやっと退いても、そこから二十年近い時間が残る。二十年は「余り」と呼ぶには長すぎる。余り、という語の収まりが悪くなった。

2000 年代後半から、「セカンドキャリア」「アクティブシニア」「ライフシフト」といった新語彙が次々に入ってきた。横文字が多いのは、輸入された概念だからだろう。定年後を第二の本番と読み直し、現役時代とは別の仕事・活動を始める、という語り方が普通になった。私の父母の世代は「余生」を使った。私の世代は「余生」と「セカンドキャリア」の両方を使う。子の世代は「余生」をもう使わない。

退職して四年目の自分が、自分の残り時間をどう呼ぶかを考えると、どの語もしっくり来ない。「余生」は短すぎる響きで、「セカンドキャリア」は派手すぎる。名前のない時間の中で暮らしている、というのが今の私の実感に近い。

社畜

「社畜」という語に初めて出会ったのは、平成二年、本屋の平台だった。佐高信が同じ年に出した本のタイトルに「社畜」の語があり、そこから一気に広まった、と聞いている。会社に飼われている家畜、の意で、自嘲にも批判にも使える鋭い造語だった。

社畜は、昭和の「企業戦士」「モーレツ社員」の否定的な読み替えだった。同じ対象を、光の側から見れば企業戦士、影の側から見れば社畜。どちらも指しているのは、残業と出張と接待で家庭を顧みない昭和の男性社員である。ただし、企業戦士は本人が誇らしげに使えた。「俺たちは企業戦士だ」と宴席で肩を組めた。社畜は、その用法では使えない。自嘲か批判にしかならない。「俺たちは社畜だ」と言うときの口ぶりは、必ずどこかに苦みがある。

平成前期、社畜という言葉は、まだ自分の職場の現実を刺す鋭利な刃物だった。同僚の一人が「俺は社畜だよ」と笑いながら言うとき、笑いの底には確かに抵抗の意思があった。抵抗の意思は、長時間労働への抗議であり、家庭との両立への渇望であり、上司の理不尽への反発だった。その鋭さが、言葉を流行させた。

ところが 2010 年代以降、社畜という語は一般化すると同時に、実体の側が減り始めた。過労死が社会問題として取り上げられ、労働基準監督署の監査が厳しくなり、働き方改革関連法が施行され、週休三日やフレックス制度が各社に広がった。社畜的なライフスタイルは、法的にも社会的にも抑制される方向に動いた。

2020 年代の若い社員は、自分を社畜と呼ぶ前に、早々に転職する。我慢して自嘲する、というのは、転職先がない世代の処世だった。転職先がある世代は、自嘲する手間をかけずに移動する。社畜という語は残っているが、使用頻度は下がり、使われ方も歴史的用語に近づいている。「あの頃は社畜という言葉があってね」と過去形で語られる場面が、ここ数年で増えた。

年功序列

「年功序列」は昭和の日本型雇用の中核語彙である。入社年次で給与と役職がおおむね決まる仕組みで、「年功」は年齢と勤続年数の合成値を指す。能力や個別の成果は、年功という枠組みの上で、わずかな差として加算された。

田島部長の世代、昭和ヒトケタ生まれの人たちは、年功序列を「当然」として受け入れていた。彼らの降霊録で触れたように、田島部長の口ぶりには、年次順に昇進することを自然の摂理のように語る響きがあった。森川さんの世代、明治生まれの人たちが戦後に定着させた仕組みで、戦前の武家や商家にはなかった比較的新しい慣行である。終身雇用と対になって、戦後復興期の企業経営に適合した制度として広まった。

私の世代、1960 年前後生まれの人間は、年功序列の終焉期を会社員として生きた。入社時点では年功序列はまだ機能していた。新人の給与は同期横並びで、昇進の時期もおおよそ年次で決まっていた。しかし、平成中期から成果主義の導入が進み、私が三十代後半から四十代にかけての時期、給与テーブルの組み直し、評価制度の刷新、ポスト数の削減が相次いだ。2010 年代に入ると、同期の中でも役職と年収に大きな差が生まれた。

年功序列の消滅で、キャリアパスの時間軸そのものが読めなくなった。昭和の会社員には、二十五歳で係長、三十五歳で課長、四十五歳で部長、という粗い地図があった。地図通りに進まなくても、地図自体は共有されていた。地図があるから、進み具合を自己採点できた。

地図が消えた後は、若手が三十代で役員になる事例、五十代で降格される事例、部長を経ずに本部長になる事例、管理職を拒否して専門職で生きる事例、どれもが普通に共存するようになった。昭和にはなかった光景である。進み方の自由は増えたが、進み具合を自己採点する尺度は失われた。尺度の喪失は、自由の別名でもあり、不安の別名でもある。

終身雇用

「終身雇用」は年功序列と対をなして、日本型雇用の骨格を成していた。入社した会社に定年まで勤める、という暗黙の契約。契約と言っても、法的な契約ではない。労使双方の、相互期待に近い。会社は社員を簡単に解雇しない、社員は会社を簡単に辞めない。この二つが噛み合ったまま四十年が経過する、というのが標準だった。

田島部長・森川さんの降霊録でも触れたように、終身雇用は昭和 20 年代後半から 30 年代にかけて制度として整備された、比較的新しい慣行である。戦前の日本企業では、職工の定着率は低く、労働市場は流動的だった。戦後の復興期に、大企業が熟練労働力を囲い込むために、長期雇用と年功賃金と企業内訓練をセットで提供するモデルを固めた。それが、昭和 40 年代以降の「日本型雇用」として海外からも注目された。

私が入社した昭和 60 年、終身雇用はまだ当たり前の顔をしていた。採用面接で「定年まで勤めたいです」と言うのが標準の志望動機で、それを疑問に思う面接官もいなかった。入社式で社長が「皆さんは家族です」と言い、新入社員はそれを文字通り受け取った。

しかし、私が三十代、平成初期にバブルが崩壊した。不良債権の処理が遅れ、平成中期にはリストラが常態化した。大企業の早期退職制度、希望退職募集、出向、転籍。これらの言葉が日常になった。「肩たたき」という昭和の語が、平成の前半までは現役で使われていた。肩を叩かれた側の屈辱を柔らかく包む語だったが、2000 年代以降、これも聞かなくなった。

「終身」という語は、一生ここにいる、ことを約束する語である。約束が守られなくなった時点で、語は空洞になる。空洞になった語は、使用頻度を下げていく。2020 年代の採用面接で「終身雇用を希望しています」と言う学生は、ほぼいない。言葉の側が、先に現実を降りた。

ただし、中小企業や地方企業、伝統的な製造業の一部には、終身雇用的な雇用慣行がまだ残っている。残響世代の経営者が、自分の身体の中にあるモデルを、そのまま社員にも提供している。語は消えつつあるが、実体はまだら模様に残る。消滅はグラデーションで起きる。

「転職」という語の色の変遷

ここまでの語彙を並べた上で、肝心の「転職」という語そのものの色の変遷を、年代ごとに確認しておく。

昭和中期、1960 年代から 70 年代、「転職」には暗い色がはっきりと付いていた。転職する人は「前の会社で何かあった」「人間関係で揉めた」「続かない人」と見られた。新聞の求人欄では、「再就職先」「中途採用」という婉曲語が多用され、「転職」とストレートに書く例は少なかった。書くとしても、高度経済成長期の人手不足を背景にした「技術者募集」などで、個人の選択としての転職を肯定的に扱う論調は、ほとんど見当たらなかった。

昭和後期、1980 年代、私が入社した頃、転職は依然として例外的な選択だった。同期会で「あいつ転職したらしい」と話題に上がるとき、話す側の口調には、かすかな哀悼の響きがあった。会社を去った人間は、仲間の輪から一歩退いた存在として扱われた。年賀状のやり取りは続いても、日常の情報交換からは抜けていく。その抜け方を、残った側は「仕方ない」と受け止めた。

平成前期、1990 年代、外資系コンサルティングファームと外資系金融が日本市場で存在感を増し、「キャリア」という語が輸入された。キャリアは、「職歴」と訳しても「経歴」と訳しても、どこかずれる。元の語が持つ「自分で設計する職業人生」というニュアンスを、日本語の既存語彙は拾えなかった。拾えないまま、「キャリア」はカタカナで定着した。カタカナで定着した瞬間から、転職は「キャリア形成の一手段」として肯定的に読み替えられ始めた。

平成中期、2000 年代、「転職サイト」「スカウト」「ヘッドハンター」「エージェント」という語彙が次々に広まった。リクルート、マイナビ、ビズリーチといった民間の職業紹介サービスが、大々的に広告を打ち、転職を前向きな選択として打ち出した。広告のコピーは、昭和の求人広告とは語気がまったく違う。「あなたの可能性を」「もう一歩先のキャリアへ」。昭和の「再就職先あり」とは、文法も感情も別物である。

平成後期から令和、2010 年以降、転職は「自分のキャリアの主体的な設計」として積極的に推奨される対象になった。新卒三年以内の早期転職も、三十代での業界変更も、四十代での専門性転換も、それぞれに合理性が認められた。人材市場の側も、転職回数の多さを「経験の幅」と読み替える方向にシフトした。

2020 年代に入ると、「一社に長く勤める」ことが逆に疑問視される場面すら出てきた。「なぜその会社にそんなに長くいたのですか」という質問が、採用面接で真顔で飛ぶ。昭和の会社員の感覚からすると、この質問は転倒している。かつて「なぜその会社を辞めたのですか」が疑念を含んだ問いだったが、今は「なぜ辞めなかったのか」が問いの位置にある。

半世紀で、転職の色は、暗から明へ、完全に反転した。反転の速度は、最後の 15 年ほどが最も速い。私の勤続年数で言えば、二十五年目から退職までの間に、社会の転職観が 180 度ひっくり返ったことになる。私の足元の床が一回転したのに、私自身は同じ姿勢で同じ机に座っていた。立ち上がってみると、床の模様が上下逆になっていた。

消えた語彙の目録

ここまで取り上げた主要語彙のほかに、2020 年代にはほぼ使われなくなった昭和の労働語彙を列挙しておく。列挙することで、雇用システムの前提がいかに多層的に語彙化されていたかが見える。

「寿退社」。結婚を機に女性社員が退職する慣行語。1990 年代までは社内報にも堂々と掲載されたが、2000 年代以降、ほぼ使われなくなった。「嫁に行く」も同様で、女性の退職を結婚と結びつける言い方そのものが、公の場から消えた。

「大企業病」。巨大組織の意思決定の遅さ、官僚化、内向きの思考を指す定型。1980 年代から 90 年代にかけて頻出したが、2010 年代以降、組織論の言葉としては残るものの、日常会話からは薄れた。

「課長止まり」「部長止まり」。昇進の天井を示す語。年功序列の地図があったからこそ成り立つ語彙で、地図が消えると使えない。「止まり」という語感そのものが、昇進を一本道と見る前提を含んでいる。一本道が無ければ「止まる」もない。

「窓際族」。1970 年代末に生まれた語で、役職を外された中高年社員を指した。デスクを窓際に移される、という象徴的な配置換えが実在した時代の語である。2000 年代以降、オフィスのフリーアドレス化や在宅勤務の普及で、窓際という位置そのものが意味を失った。

「万年係長」。昇進しないまま定年を迎える社員。哀愁と諦念の入り混じった語で、本人より周囲が使うことが多かった。今はほぼ聞かない。

「出世街道」「エリートコース」。キャリアパスの定型を示す語で、会社の中に明確な「街道」があった時代の産物。現在は同じ内容を「ハイポテンシャル人材」「タレントパイプライン」といった人事用語で語ることが多い。

「転勤族」。社内配置転換で全国を移動する社員とその家族。昭和の大企業では珍しくなかった生活様式だが、育児・介護との両立困難、持ち家志向、地域限定採用の普及で、頻度が大きく下がった。

「単身赴任」。今も使われるが、制度的抑制と在宅勤務の普及で頻度は下がった。昭和のサラリーマン像を支える重要な語彙だったが、今の若い世代は「そもそも単身赴任を受けない」という選択肢を持つ。

「定年退職」。再雇用制度の定着で、六十歳の定年が退職の同義語でなくなった。「一応、定年ですが継続雇用です」という言い方が普通になり、定年退職という単独の事象が、輪郭を失った。

「天下り」。官庁から民間・特殊法人への再就職を指す語。規制強化と批判の継続で、2010 年代以降、頻度が大きく下がった。完全に消えたわけではないが、かつての多用の時代とは比較にならない。

「二足のわらじ」。兼業の比喩。副業解禁の流れの中で、中立的な「副業」「複業」「パラレルキャリア」に置き換わりつつある。わらじ、という身体の比喩が現代生活に馴染まない、という語感の問題もある。

これらの語彙は、それぞれ昭和の雇用システムの前提を一つずつ担っていた。前提が崩れると、語彙は浮いて、地面との接触を失う。接触を失った語は、若い世代の口に乗らない。乗らない語は、やがて消える。

私の側の事情

ここまで社会の側の話をしてきたので、私自身の側の事情も書き残しておく。語彙の目録を、身体の外側だけで語るのは片手落ちになる。

38 年間、一社で勤めた。転職を具体的に考えた時期は、三度ある。三十代半ば、四十代後半、五十代前半。三度とも、転職先の企業から実際に声がかかった。最初は同業他社の研究部門、二度目はコンサルティング会社、三度目は取引先の海外法人だった。どれも、数か月悩んだ上で、結局動かなかった。

動かなかった理由を、自分で正確に言語化できない。理由は複数あり、どれが一番大きかったのか、今でも整理がつかない。子供の学費、住宅ローン、妻の意向、自分の臆病、前任者への義理、進行中のプロジェクトへの責任感、そして、昭和の労働観の刷り込み。これらが層になって、動こうとする足首を引いた。

昭和の労働観の刷り込み、というのは、具体的には「石の上にも三年」を何倍にも引き延ばした心の癖である。最初の三年を耐えると、次の三年も耐えてみたくなる。六年耐えると、十年の区切りを見たくなる。十年を超えると、二十年を目指すのが自然に思えてくる。その延長線の上に、38 年があった。一歩一歩は小さな延長で、どこかに大きな決断があったわけではない。

途中で動かなかったことを、後悔しているかどうか、はっきりしない。後悔しているとも言えるし、していないとも言える。両方が、同じ温度で身体の中に並んでいる。転職していれば別の人生があった、ということは分かる。別の人生の方が豊かだった可能性はある。しかし、今の人生を豊かでなかったと言い切るほどの確信もない。

退職後に出会った若い人たち、タケウチ君やソノダさんの教え子たちは、三年で転職するのを、私は驚かない。私の世代の基準では理解しにくいが、彼らの時代の基準では合理的な選択である。違う基準が、同じ国の中で世代ごとに併存している。併存しているというよりも、地層のように重なっている、と言ったほうが近い。上の地層は下の地層を忘れて歩き、下の地層は上の地層を遠くから眺めている。

ソノダさんが「ワタナベさん、昭和の転職観を書いてくださいよ」と言ってきたのは、地層を掘る作業を、勤続者の身体でやってみてほしい、という依頼だったのだろうと受け取っている。自分の身体の地層を掘ると、思っていたより複雑な地質が出てくる。書きながら、そう感じている。

消えるもの、残るもの

並べてきた語彙を、消えたものと残ったものに仕分けしてみる。「石の上にも三年」は、諺としては残るが、会社員の新人訓としてはほぼ消えた。「腰掛け」は消えた。「職人気質」は会社員文脈から消えた。「寿退社」は消えた。「窓際族」は消えた。「万年係長」は消えた。「天下り」は縮小した。「二足のわらじ」は中立的な別語に置き換わった。

一方、「社畜」は意味を変えつつ残っている。「転職」は色が反転して残った。「キャリア」は外来語として定着した。「単身赴任」「定年退職」は制度の変化の中で輪郭が薄れたが、語としては残っている。「年功序列」「終身雇用」は実体が失われた後、歴史的用語として残った。

語彙の消滅速度と、その語彙が支えていた雇用制度の消滅速度は、おおむね一致している。ただし、ずれがある。制度が先に消え、語彙が数年から十年ほど遅れて消える。制度が消えても、現場の口には慣性がある。前任者から引き継いだ言い回しを、新しい世代にまで短い期間、引き渡してしまう。渡された側が違和感を覚えて使わなくなり、そこで語は途切れる。

制度が消えても、語彙を知っている世代の身体の中には、語彙の残響がある。田島部長の身体には年功序列の残響があり、森川さんの身体には終身雇用の残響があり、田口さんの身体には寿退社の残響があり、私の身体には「石の上にも三年」の残響がある。残響は、意識的に呼び出さなくても、日々の判断の底で鳴っている。残業すべきかどうか、後輩にどう助言するか、自分の引き際をいつにするか。そうした判断の底に、古い語彙の低音が鳴っている。

身体の中の残響は、新しい制度の中で働く人たちには見えない。見えないまま、残響世代は少しずつ退場していく。私の世代が退場し終わるのは、もうあと十年か十五年だろう。その後、昭和の労働語彙は、文献の中でだけ生き残る。文献の中の語は、読まれなければ眠ったままになる。

この目録は、残響世代の身体が消える前に、語彙を記録しておく作業である。残響ごと死ぬのはもったいない、と考える気持ちが、ソノダさんや私が昭和語彙の考古学を続ける動機の一つである。もったいない、という感覚を、論理で説明するのは難しい。ただ、長く使われた道具を、使う人がいなくなったからといって燃やすのは、気が引ける。その程度の、素朴な気持ちに近い。

38 年一社で勤め上げた身体として、「転職」という語の色の反転を、自分の目で見届けた世代に生きた。反転の始まりから完了までを、現役の会社員として眺め続けた世代は、おそらく私たちが最後に近い。次の世代は、反転した後の景色から会社員人生を始めている。

見届けたからこそ、この語彙の目録を作る責任が、多少はある。責任は大げさな話ではない。記録を残さないと、次の世代に「あの時代の働き方」がそもそも再現できない、という程度の話である。再現できないと、比較ができない。比較ができないと、現在の働き方が何に対する変化なのか、見えなくなる。現在を測る物差しとして、過去の語彙は、しばらく必要である。

次に書きたいのは、昭和の「出世」という概念そのものである。出世の梯子の段差、梯子の見え方、梯子が消えた時代の働き方の変化。出世という語は、転職とは別の場所から、昭和の会社員の身体を締めていた。出世を諦めた男の風景、出世に恵まれた男の風景、出世と家庭の交換レート、これらを束で扱うと、長くなる。次の稿に譲る。

退職して四年目の身体は、会社員だった頃の身体と、少しずつ別物になってきた。朝、目が覚めて、予定がない、ということに、まだ時々驚く。38 年、平日の朝は必ず予定があった。予定がない朝の身体の持て余し方を、この四年で少しずつ覚えてきた。持て余した時間を、こうして語彙の目録に充てているのも、身体の転び方の一つである。書き終えると、予定があった頃の身体が少し遠くなり、予定のない身体の輪郭がわずかに締まる。それを日課にして、しばらくやっていこうと思っている。

← 姉妹編:消えた職場用語の考古学
← 関連:上の世代のことば
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。