マーク(48歳、元ALT、米国在住)
二十年以上、アメリカで暮らしている。日常で何度も直面する言葉がある。「Sorry」だ。日本では挨拶、感謝、軽い謝罪、配慮、すべてを包含する「すみません」が息をするように使われる。しかし、米国で「Sorry」は、明確な非を認める言葉だ。場合によっては法的な責任すら招きかねない。この違いは、私の身体に深く刻み込まれている。
先日、スーパーの冷凍食品コーナーでのことだ。私がカートを止めて商品に見入っていると、通路の角から若い女性がベビーカーを押して現れた。狭い通路で完全に道を塞いでいたのは私だ。頭の中では「Excuse me」と、なめらかな英語が用意されていた。しかし、口から滑り出たのは「Sorry」という言葉だった。女性は一瞬、眉をひそめたが、すぐに気にする様子もなく通り過ぎていった。あの顔は、「なぜ謝る?」と問いかけていた。私はその場で、壁のフライドポテトの袋をじっと見つめていた。
別の日、職場で打ち合わせに向かう途中、角を曲がった拍子に同僚と軽くぶつかった。彼は手にコーヒーカップを持っていたが、こぼれることはなかった。咄嗟に「Sorry」と口にした私に、彼は明るく「No worries, Mark. My fault, I wasn't looking.」と返した。彼は悪くないのに、私の謝罪につられて自ら非を認めたのだ。その瞬間、私は自分の言葉が意図せぬ影響を及ぼしているのを強く感じた。
長年、日本で染み付いた習慣は、無意識の反射として身体に定着している。理性で「Excuse me」と判断しても、口は勝手に「Sorry」を紡ぎ出す。これは、私の思考とは別のところで、脳と口が独立して動いているような奇妙な感覚だ。
このズレは、私自身の言語野における不可避の欠陥である。改善の余地はない。
以前、アメリカ生まれの日本人二世の友人が、私の「Sorry」癖について言った。「マークさん、悪くもないのに何で謝るんですか?それ、訴えられる原因になりますよ」彼の言葉は冗談めかしていたが、その眼差しは真剣だった。彼らにとって「Sorry」は、あくまで過失を認める場合にのみ使う言葉であり、日本の「すみません」のような融通は存在しない。彼らの言葉の使い方は、この土地で生まれ育った者の当然の感覚だろう。
私の口から出る「Sorry」は、もはや単なる言葉ではない。それは、ここでの生活に完全に馴染みきれない、私自身の痕跡だ。今後も、私の口は勝手に「Sorry」を繰り返すだろう。そして私はその度に、心の中で静かに訂正を続けるのだ。