マーク(48歳、元ALT、米国在住)
アメリカでの生活は二十年を超える。日々のやり取りの中で、常に意識させられる言葉、それが「Sorry」だ。日本では挨拶、感謝、軽い謝罪、配慮を示す「すみません」が日常に溶け込む。しかし、米国では「Sorry」は非を認める言葉であり、法的な責任を伴う可能性もある。この違いは、海を渡った多くの日本人にとって、静かなる挑戦として横たわる。
日本の「すみません」は、その多義性において他に類を見ない。道を聞く時、店員を呼ぶ時、軽い感謝を伝える時、そしてもちろん、実際に誰かに迷惑をかけた時。一日に数え切れないほど口にするこの言葉は、円滑な人間関係を築くための潤滑油のようなものだ。無意識のうちに発せられるそれは、まるで呼吸のように、日本人としての存在の一部と化している。
一方、アメリカでは「Sorry」という言葉の重みが全く異なる。些細なことでも、安易に「Sorry」と言うことは推奨されない。例えば、公共の場で人と肩が軽く触れた程度で「Sorry」と言うと、「私が悪かった」と認めたことになりかねない。それは、潜在的な訴訟社会において、時に不必要なリスクを招く。だから、アメリカ人は多くの場合、もっと中立的な表現、「Excuse me」や「Pardon me」を選ぶのだ。
それでも、長年日本で培われた習慣は根強い。スーパーの通路で軽く邪魔をしてしまった時、頭では「Excuse me」と理解しているのに、口からこぼれるのは決まって「Sorry」だ。エレベーターのドアが閉まりかける瞬間に乗り込んできた人へも、反射的に「Sorry」と呟いてしまう。その度に「またやってしまった」と苦笑する。これは、長きにわたり英語圏で暮らした日本人特有の習性なのだ。
ある友人は「まるで、日本語の脳みそが勝手にスイッチを押してしまうようだ」と表現した。
その言葉が、この複雑な心理状態を最も的確に言い表していると私には思える。自己防衛的な文化と協調的な文化の衝突が、個人の無意識の行動にまで影響を及ぼしている証拠だろう。
この「すみません反射」を最も明確に理解できるのは、アメリカ生まれの日本人二世、いわゆる「Nisei」との会話においてだ。彼らは、親から日本語の習慣も引き継ぎつつも、物心ついた時からアメリカ社会の言語感覚に触れて育っている。彼らにとって「Sorry」は、明確な過失を認める場合にのみ使う言葉であり、日本の「すみません」の多義性には戸惑いを見せることすらある。
先日、友人の二世の息子が、私が軽い衝突で「Sorry」と言った際に、首を傾げた。「Dad, why are you apologizing? You didn't do anything wrong.」彼の問いかけは、私たち間に横たわる文化的な溝を如実に物語っていた。彼らは、訴訟リスク以前に、言葉の根源的な意味をアメリカ的な文脈で捉えている。
この、無意識のうちに口からこぼれる「Sorry」は、単なる言葉の誤用ではない。それは、日本人としてのアイデンティティと、異文化の中で適応しようとする努力の狭間で揺れ動く、ささやかな証拠だ。完全にアメリカナイズされることもなく、しかし日本的なるものだけでは生きられない環境で、私たちは今日も、それぞれの「Sorry」と「Excuse me」のバランスを探し続けている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。